この5章の最後の教えは隣人との関係について教えるものです。「右の頬を打つような者には…」、それは徹底した赦しを、「下着を取ろうとする者には…」、それは求められた以上に与える愛を教えます。さらにこの箇所で問われることは自ら積極的になすべきことについての教えです。
「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」、それはユダヤ人の常識でした。サマリヤ人や異邦人とはつきあいをしない彼ら。イエスはルカ10章でよきサマリヤ人のたとえ話をして隣人とは誰なのかを教えました。私たち、山梨県人は「おれんとう」、「おまんとう」と人を分けます。内には親切にしますが、外には無関心です。でもそれは世界共通、人が持つ罪の交わりです。どこかで人と人との間に壁を作り、自分に都合のよい範囲でしか、交わりをしないのです。
一方で、イエス様が求められたのは、敵を愛し、迫害する者のために祈ることです。受難節を迎えて、イエスのゲッセマネの祈りを覚えたいのです。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」そう祈られたイエスは「立ちなさい。さあ、行くのです」と十字架に向かうのです。私たちが敵のために祈るのは、相手が変わることです。しかし、イエスの祈りは、自分が何をなすべきかを祈りの中で主に問うことです。
天の父が、悪い人にも良い人にも太陽を上らせるように、相手がどんな人であるのかが問題なのではなく、愛するということは、徹底して自分を捨てて愛し抜くこと。主が私たちに求めておられるのは、そのことです。私たちの限りのある愛ではなく、神の愛をいただいている者にふさわしく、それに応える愛を祈りの中でいただこうではありませんか。