日本人の死生観、そして終末観はあいまいです。「ゆく河の流れ絶えずして、しかももとの水にあらず…うたかたの」と謳われるように、生まれ、死に、また浮かび、また沈む。そして、終末などは意識の中にありません。ですから、今を生きるいのちは刹那生きることしか考えはしないのが普通です。
一方でここにあるように聖書の教えは、キリストの再臨と世の終わり、そして、新しい天と新しい地の再創造です。教会の歴史の中で、それが強調される時代があります。それは「いきづまり」を覚えるときです。内村鑑三と中田重治の再臨運動、内村にとっては、最愛の娘の死という乗り越えがたい出来事、そして平和主義者であった彼にとっての第一次世界大戦の悲嘆でした。
一方で、かりそめにもうまくいっている人たちは、ここにあるように神に対する恐れを捨てて、「理性のない動物のように」衝動と本能のまま、自分の思いのまま「欲」に支配された歩みをするのです。
ここに問われるのは、「一日は千年のようであり、千年は一日のよう」に、私たちは時の中でしかものごとを考えることができませんが、神にとっては、それを超えてみこころを行われることをわきまえることです。
そうだとしたら、神の御前に「聖い生き方をする敬虔な人」として自らを整えることです。私たちはことを先延ばしにしようとする傾向があります。今、主の御前に整えるべきことがないでしょうか。そして、「新しい天、新しい地」ですべてが新しくされる日を待ち望みつつ、今生きる場が、すでに神のもとにあることを喜びつつ、神と共に生きることが求められているのです。先にある希望を仰ぎ見つつ、今を献げて生きようではありませんか。