「最期のときの迎え方」創世記50:12-26

 「老い」、それは人の宿命でしょうか。ポール・トゥルニエは老いを受け入れる諾、それは人生のすべてにおいて、生まれた時代、親、家族、兄弟、場所や国、それをありのままに受け入れる諾こそが、鍵だと言います。ヨセフの最期にそれを学びたいのです。

 ヨセフの父ヤコブ、彼の始まりは父の家を追われて一人石を枕に夢を見たあの夜から始まります。神が決して捨てないとお約束くださったところからスタートしたのです。しかし、それは意に反して自らが選んだわけではない出来事に翻弄されます。二人の妻に二人のそばめ、そこに生まれてくる息子たち。そこに起こる争い。

 その中に生まれたヨセフは兄たちにねたみと憎しみによってエジプトに売り飛ばされます。ヨセフはそのエジプトで神の不思議な導きによって国の要職、ナンバーツーに抜擢されます。ときにエジプトとその周辺を襲った飢饉のため、兄たちが食糧を買いに来、ともに涙ながらの和解をします。しかし、どこにはまだ「わだかまり」あるいは「しこり」が残っていました。兄たちにとって和解は、父の手前だと思っていたのです。

 ヨセフが言ったことばに注目しましょう。第一に、彼は「どうして、私が神の代わりでしょう」と言います。そうです。さばきは主のものです。それに委ねることです。第二に、だからといって、罪が見過ごしにされるということではありません。赦しこそが和解の秘訣です。第三に「神がよきことの計らいとなさいました」という神の恵みに対する感謝です。

 今、不平不満ばかりで生きているのなら、最期のときにもやっぱりそうです。最期は今が決めることを覚えて、今を主の御前に大切に生きようではありませんか。