初代教会には主に対する恐れがありました。それは主の権威に対する恐れです。そしてその権威ゆえの不思議としるしがなされたのです。この箇所はその実例です。
彼らの礼拝の場は宮でした。生まれつきの足のなえた人がその門の前に施しを求めるために置かれていました。宮は毎日人が集まります。祭りの度に地方から集まる人、年に一度、一生に一度の巡礼者も訪れます。ハレの場所ですから、そこに訪れる人目当ての商売人もいるほど、財布の口がゆるくなる場所だったのです。
一方でハレの場所に集まる人たちの前で彼の思いはどのようなものであったでしょう。足がなえたという不自由だけではなかったでしょう。どうして私だけがこのような体に生まれてきたのか。人生の不公平を思い、人をうらやみ、自己憐憫と戦い、一方であきらめ受け入れなければならない現実の中で満たされない思いと苦悩を抱えていたのではないでしょうか。
ペテロとヨハネがその前を通りかかったときも、彼の期待することは施しをもらうことだけでした。誰一人として根本的な問題を解決できる人などいなかったのです。お金で、当面をやり過ごすよりないのです。今、地震と津波ですべてを失った人たちから聞く言葉は「家は買えばいい、でもいのちは買えない」です。金銀で人は満たされないことを私たちは実感しています。
ここに「イエス・キリストの名によって、歩きなさい」ということばは、私たちにも迫ります。主に権威があるのです。力があるのです。私たちがちっぽけな埋め合わせをして生きる以上のことを主はなしてくださるのです。それを信じて生きることこそ、あなたの力なのです。
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