母の日のエピソードを読むと、共通するのは、母への「甘え」です。母という存在はどこかで甘えを許してくれる。それは、どんなことがあったとしても受け入れてくれる唯一の存在だからなのでしょう。子どもは作るものでもできるものでもありません。神様から子どもを授けられ、預けられてお母さんになるのです。不思議なことに、実に一年近く、子をお腹に宿し、お腹を痛めて子どもは生まれてきます。
シェネムの女には子どもがいませんでした。預言者エリシャにとても親切にしてくれます。子どものいない彼女ですが、「私は私の民の間で、幸せに暮らしております」と言います。それを受け止め、ささげることを喜びとする人でした。その彼女にエリシャは「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱くようになる。」と言います。彼女はは「このはしために偽りを言わないでください。」と答えますが、エリシャのことばの通り、翌年のちょうどその頃、彼女に男の子が与えられたのです。
ところがある日のこと、その子が死ぬのです。そこで彼女がしたことは何かといえば、息子が死んだことを夫にも告げず、エリシャのところに飛んでいくのです。私が求めることもしない子どもを、あえて与えてくださった。ならば、神の人、そして、神に願うのならば、必ず返してくださる。
母があきらめないのは、悲しいからだけではありません。神の恵みを信じる信仰によってです。単なる「気休め」を与えようと子どもを与えられたのではない。恵みによって喜びを増し加えてくださるために子どもを与えてくださったのなら、さらに悲しむようなことを神がなさるはずはないという信仰です。そうです。母があきらめないのは信仰によってです。そして、神はその信仰のとおりエリシャを通してこの子を取り戻してくださいました。どんなにか大きな喜びだったことでしょうか。いのちの恵みの感謝を神に、互いに表そうではありませんか。