「父の心を子に向けさせる日」マラキ4:1-6

 イクメンということばが、よく使われるようになり、父親の育児参加が当たり前の世相です。わずかな世代間で父親の存在や役割についての考え方は大きく変わってきました。しかしながら、それでも深いところで父親の心のありようというものは大きくは変わっていないように思うのです。

 聖書の中にはイクメンどころではない、程遠い現実がそこにあります。ダビデの息子たちは最初の6人は全て母が違います。次の4人は部下から奪ったバテ・シェバが母、さらに9人の息子とそばめの子たち。息子たちは争い合い、殺し合ったりします。続く王たちを見ても、どんなに信仰深く用いられた王であっても、それを継承できないのです。かえって母たちの名前がでてくることが、子育てにおける母親偏重を匂わせています。父としてその務めを誰一人として果たしてはいないのが現実なのです。

 このマラキ書の背景も同じです。捕囚からの帰還後の様子はエズラ記、ネヘミヤ記に出てきます。城壁の再建が進む中、食べるに困窮して娘を売らなければならないような状況が起こります。「家は建ったが、家族はバラバラ」とでも言うような状況です。そこにマラキが語ったのが「父の心を子に向けさせる日」の預言なのです。私たちの国も豊かになりましたが、家族はバラバラ。実に状況は同じです。神の救いが是が非にも必要です。

 そう、家族にとって「男は父は経糸、女は母は緯糸」と言ったのは新渡戸稲造です。主にあっては、男も女も、老いも若きも、時代も世代も、国境も民族も越えて神の御前にあるひとりひとりなのだという人格、いのちの尊厳を認めること、その中で、それぞれが大切や役割を委ねられていると自覚すること。そこから喜びある家族が形造られるのです。

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