宮きよめの出来事の後、イエス様が教えられたこと、その前後のつながりが唐突な感じがします。しかし、それは「祈りの家」でされるべき祈りについて、何を願い、何を求めるべきなのかを教えておられるのです。
「心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。」それは山をも動かすと言うのです。その通りにいかないように思うことがあります。祈りが足りないからでしょうか。信仰が足りないからでしょうか。疑う心があるのでしょうか。私たちはときに「たまたま」という言葉を使います。神の導きを人の「たまたま」にしてしまっているのです。実は、山は動いています。主が求めておられることは、「全幅の信頼をもって耳を傾けて下さるお方の御前に祈れ」ということです。私たちの「心で疑う」ので、主のしてくださっていることすら見えない。もう一度信仰を新たにしたいと思うのです。
もう一つは、赦しです。隣人を愛する一番のことは「赦す」ことです。「祈るために立ち上がるとき」、それは神の御前に出るときのこと。同時に、隣人への赦しが求められるのです。それは主の祈りと続く祈りの教えの中にもでてきます。私たちは赦された罪人に過ぎず、何度でも罪の赦しを祈り願わなければならない者です。それが最もよく分かるしるしは、人に対する赦しです。赦されていながら赦せない。それは自分がいただいた恵みの大きさがわかっていないしるしです。だからこそ、主はこの二つを一つのものとして教えているのです。
この二つを生きる者に与えられるのは自由です。神に対しても隣人に対しても、何の縛りも妨げも、疑いも憂いもなく心から信じ、赦され赦されている。私たちは神の住まれる聖霊の宮「祈りの家」として、取り去るべきものがあるのです。宮きよめのようにきよめていただき、本来あるべき姿、疑いから自由にされる。本来のいのちにきよめていただきましょう!