「イエスの権威」マルコ11:27-33

 エルサレム入城から宮きよめに続く出来事を読み進めています。イエスの宣教はユダヤの片田舎、ガリラヤのカペナウムという小さな漁村から始まりました。それが今、エルサレム、ユダヤの都にやってきたのです。今や国を動かす力です。民の指導者たちはイエスを葬る十字架への道へと一気になだれ込んでいきます。そこで問われるのはこのイエスの権威です。イエスは誰かという問いです。
 福音書全体がそれを問うています。イエスの宣教の初め、イエスが教える教えには権威がありました。そして、様々なしるしを伴っていました。弟子たちと荒れる湖で嵐を鎮めると「いったいこの方はどなたなのだろうか」と彼らは問います。一方でイエスの権威につまづきが起こります。それらを見聞きした弟子たち、「わたしをだれだと言いますか」という主イエスの問いにペテロは「あなたはキリストです。」 と告白しました。
 民の指導者にとっては宮きよめ、看過できないことをイエス様がなさっている。何かの因縁つけてはイエスを葬り去りたい。それで、「何の権威によってか」と問うのです。しかし、逆にヨハネのバプテスマのことを問われた彼らは「分かりません」と逃げることしかできませんでした。
 ここで問われたイエスの権威をどう受け取るか。それが今、問われていることです。イエスを知れば、信じられるかというとそれは話が違います。知識だけでは救われないのです。自分の存在が脅かされるようなこと、あるいは自分を変えなければならないようなことに私たちの「罪」は抵抗するのです。信仰を与えられるのはすべて恵みによることです。宮をきよめるように、私たちの心の中から、「祈りの家」となることを妨げるあらゆるものを追い出していただかなければならないのです。今一度、その権威のまえに心きよめていただこうではありませんか。