この箇所、「ですから」という言葉で始まっています。ローマ書は、1章から11章まで、神がなしてくださった救いのみわざ、教理をパウロは語り、この12章から、信仰者の生活その適用を教えているのです。その最も重要なことは「神の愛」です。ひとり子を賜る神の愛を受けている私たち。「ですから」その上に立って、ぜひとも聞いて欲しいことがある。それがパウロの「ですから」なのです。
そのあわれみの器として、自分自身を献げる、献身をと呼びかけるのです。6章には罪の奴隷として生きていた者、自分中心に生きていた者が、神の奴隷として自らを献げ、神中心の生き方にシフトしたと教えられています。「生きた」とは、そのいのちの向きを神中心に変えるということです。
「あなたが祈るとき、あなたは神中心の人になる」とはハドソン・テーラーのことばです。絶えず祈り、神に喜ばれることを祈り願い、それに導かれて、聖なる者となることです。そこに、どこかでふさわしからざるものが入り込んできてはいないだろうか。私たちの心には神のためにと言いながらも、人に認められたい。人にほめられたい。自分を喜ばせたい思いが入ってくるものだからです。
そのような献身こそが求められていることを教えたパウロは、それこそ「ふさわしい礼拝です」と言います。元々のことばは論理的とか、筋が通ったとか、理性的とか、納得の行くとか、「Reasonable」と英訳した聖書がありますが、そのような意味を持つことばです。世と調子を合わせるのは、どこか、自分を守るためです。そのようなものではなく、心の一新、つまり神に献げて神が喜ばれることを第一としていくことときに、「神に喜ばれ、完全」な者へと成長していくのです。そのために、自らを献げる献身こそが礼拝の心なのです。あなたはどのようにお応えしますか。