「神のなさることを受け入れるなら」マタイ1:17-25

 イエス誕生のストーリーの中で、ヨセフという人は控えめに出てきます。彼はただ、二つのうちどちらを選ぶかを突きつけられました。それは、目に見えることだけを信じるのか。それとも、目には見えないことを信じるのかの二つです。

 目に見えることは、彼の許婚であるマリヤが身ごもっているという事実です。誰か他の男と通じた以外に考えられません。もちろんマリヤは自分にあった出来事を丁寧に説明したことでしょう。しかし、ヨセフにとって、それはすべて言い訳に過ぎないのです。事実は事実、起こっている出来事がすべてです。

彼は悩みながらも、ひとつの決断を下したのです。「内密に去らせよう」と。

 ところが彼は夢を見ます。今、まさに思い悩んでいる。そこに、神様が告げられた答えでした。夢と言ってしまえば夢、しかし、それが神が知らせた自分へのメッセージだと彼は信じたのです。ヨセフにとって、その神の救いのご計画のすべてを知ったわけではありません。その一部を垣間見たに過ぎません。しかし、すべて彼の疑問が解けたのです。

 処女から生まれるとは何の意味があるのでしょう。このマタイの福音書は系図から始まります。罪の汚点ばかりの系図です。そこにイエスが生まれてくださったということは、神から私たちのところに来てくださったのです。私たちが努力に努力を重ね、精進に精進を重ねて神に達するのではありません。聖い神の方から、罪深い私たちのところに来てくださったのです。そればかりではなく、罪のない生まれは、私たちの贖いの代価としてご自身を献げるためでした。目に見えること、それは人の罪と限りです。しかし、目に見えないこと、それは神のみわざです。それを信じる恵みこそがクリスマスなのです。