「神の思いはキリストを通して」イザヤ53:10-12

 クリスマスということば、それはキリスト=救い主、とミサ=礼拝が合わさってできたことばです。救い主を礼拝する。その救いとは何を指すのでしょう。

 ここに罪、罪過、咎ということばが出てきます。このイザヤ書の1章を開くと、「主を捨てた」という罪が指摘されています。命は神からの賜りものです。神なくして生きられないはずの人が、神から離れているのが罪の本質なのです。生まれたばかりの赤ちゃんには何の差もありません。しかし、成長するに従って、人は賜物のはずの能力や力を誇り、一方で比較しては不平不満を溜め込みます。そして、奪い合い、争い合い、断絶の悲しみと悩みに生きているのが人の姿です。帰らなければならないところ、それは命の基である神のところです。

 罪のいけにえ、それは聖書の中で「贖い」ということばで出てきます。聖書の民、イスラエルにとってはエジプトの苦役から救い出されたときの子羊の血を意味します。また、律法に守り行うように定められたいけにえの儀式を意味しました。救いのためには命の代価が求められたのです。そのために、ひとり子を世にお遣わしくださった。それが救い主の誕生です。贖いはまた、ルツ記のボアズのように買い戻し、犠牲を払って隣人を救うことを通して、私たちにも贖いを生きるようにと求められました。

 それは一言で言うならば「愛」です。「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」と語ります。命さえも明け渡し、与え尽くす愛を喜ぶのです。それほどに神は人を愛してくださったのです。神の愛を喜び迎え、我が心に主よ住みたまえ。そして私も愛の人にさせてくださいと祈り、救い主を喜び迎えようではありませんか。