「神の民の再建」第二歴代誌31章

 ヒゼキヤによる再出発は神殿の聖別と過越の祭の再開から始まりました。続いて彼が導いたのは、国全体の聖別と日毎、安息日毎、例祭という礼拝の建て直しです。
 まず、石の柱とアシャラ像、高き所と祭壇という偶像礼拝に関わる者を「徹底的に」壊します。それはユダのみならず、エフライムとマナセでもしました。それは、士師の時代、ギデオンが恐れながらもアシャラ像を切り倒したのと同じように、勇気いることであったでしょう。「徹底的に」という言葉が指すことは、妥協なく信仰に立つことです。それは私たちにも求められていることです。
 次に、全焼のいえにえをはじめとする礼拝の再建です。全焼のいけにえというのは文字通りにすべてを焼いて献げます。それは実に「もったいない」ものです。ですから、信仰なくしてできません。そのために仕えるレビ人は相続地を持たず、民の中に住み、他の部族が1/10ずつ献げるものによって奉仕する民です。そのためにレビ人と祭司の奉仕の態勢を組み直します。そのために民にささげものを求め、民は喜んでささげるのです。
 礼拝の生活の再建、それを預言者のことばも後押しします。マラキ書3章には、「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。」という有名な言葉があります。それは主の祈りとよく似ています。主の祈りでは「日毎の糧を今日も与えたまえ」と祈るように教えられています。日毎の糧を与えられるのは神の恵みの故。感謝を持ってそのしるしをおささげする。喜んでささげる者に主が必要を満たしてくださる。だから喜んで神に感謝を捧げる。それが神と共に生きる生活なのです。
 それは私たちにも同じです。徹底的に聖別すること、日々の歩みの隅々にまで聖さを、そして、喜んで神と共に生きる歩みを歩もうではありませんか。