受難週を迎えました。イエス様のエルサレム入城、人々は「ホサナ、ホサナ」と喜び迎えました。それは、イスラエルをローマの圧政から救う期待でした。一方、イエスの与える救いは罪からの贖いです。
私たちは自分でもわからぬほどに罪深い者です。イエスが「父よ。彼らをお赦しください」と祈られたのは、自分を十字架につけた者たち、民の指導者、ピラト、群衆たちにです。裏切ったユダ、逮捕とともに逃げ去った弟子たち、三度否んだペテロ。そして、私たちもそうです。神から離れているゆえに、羊のようにさまよい、罪を犯し、それにすら気づかない愚かな姿、そのために、イエスは祈られました。
そして、イエスは命を捨て、愛を全うしました。ゲッセマネの園での祈りまでイエスはずっと試みを受けてきました。イエス様は山上の説教で「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい…天の父が完全であるように、完全でありなさい」とお教えになりました。しみもしわもないきよいご自身をここでささげ尽くし、代価を払って買い戻す贖いをしてくださったのです。
その贖いを唯一、ただ一人わかったのが、一緒に十字架に架けられた犯罪人のひとりです。彼は自分の罪を告白します。そして、イエスに「思い出してください」と願いでるのです。「救ってください」などと言えない。そんなことを言うことすらできない者なのです。私たちは「心貧しく」、どうにも自分を救い得ない者であることを認められないのです。しかし、彼は、「思い出してください」としか言えない。その資格すらない者であることをここに告白しました。イエスは、その願いに応えて、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と言ってくださいました。この世に残している未練も後悔も、死にゆく恐れも不安も、すべてを吹き飛ばす救いのことばです。そして、それが私たちにも与えられています。