パリサイ人、ヘロデ党の者、サドカイ人、イエスを葬り去りたい者ばかり。しかし、ひとくくりに「あの人たちは」と全部が全部そうであるわけではなく、律法学者たちの中にも真理・真実を求める者たちはいました。戒めに戒めと律法の本質を失っていた彼らの中の一人が尋ねるのです。「すべての中で、どれが第一の戒めですか。」
イエスの答えは、『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。 30 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』 これが第一。そして第二は『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』だと言います。第一とすべきことは二つ。そして、それらは切り離すことができない一つのものであるということです。
しかし、愛することには妨げがあります。ホセア書には「姦淫の女と姦淫の子らを引き取れ」というホセアに対する神のチャレンジがでてきます。ホセアは自分自身が赦し愛することの困難を自ら痛みながら、神の赦しと愛、そのあわれみについて預言するのです。過去の記憶、愛することを命じられていても、投げ出したくなる思いは大きく、しかも裏切りの妻を愛することには大きな妨げがあるのです。
律法学者はよく理解していました。それでイエス様は「あなたは神の国から遠くない。」と言います。対照的なのはイエス様と共に十字架につけられた犯罪人です。「パラダイスにいる。」つまり、神の国に入ると言われるのです。それは「私にはその資格などない」と主に委ねたからです。どこまで行ってもその律法の要求に応えられないことをへりくだって認めるとき、そして、イエス様が贖いの代価としてご自身をお与えになったことを信じる者が、へりくだって、赦しを願うことこそ愛することのスタートラインです。そして愛されたように愛する。それをともに祈りましょう。