ここに命じられているのは、罪が罪とわからず罪に陥り、後から責めを覚えるときのことです。常に罪を薄めてしまう私たち、自分の心を見張ることは大切なことです。まず、その罪とは何か。確認をしておきましょう。
罪とは第一に、いのちの造り主であられる神から離れていることです。それがゆえに的が外れて、いのちの目的やゴールを見失っている。それがゆえに刹那生きるのです。罪がゆえにどんなに人が知恵を尽くしても争いはなくならず、憎しみは消えず、復讐はなくなりません。
罪とは第二に、神の命じられたことに背くことです。神は罪を教えるために律法をくださいました。しかし、私たちはそう言われても、思いがままを欲し、それに背きます。またそれは私たちの良心いにも書き付けられています。だから良心の咎めや罪責感を覚えるのです。
第三に罪とはに、行為以前に心の内側の問題です。私たちの心はいつも自分中心。思い通りをしたいのです。イエス様は「人からでてくるもの、それが人を汚すのです」と教えました。
この罪のいけにえ、そこには、逃れられる人など一人もありません。誰もが罪人です。しかも血、つまりいのちを持って贖わなければならないほどに、いのちをもって裁かれなければならないほどに罪は重いものなのです。その前に悔い改めよと厳粛な問いかけがされているのです。一方で、罪を悔い改めるなら赦される。それこそが神の恵みであり、あわれみです。
旧約のこの儀式は何度でも献げなければならない不完全なものでした。しかし、キリストの十字架は永遠の、完全な贖いです。ここに旧約のように人がささげるのではなく、神が先んじて救いを備えて下さり、それを信じ受け入れるように神が招いて下さっているのです。その招きに応じるのなら赦される。神を見上げ、いただく愛と恵みに、私たちも内側から思いも行いも造り変えるように神は招いて下さっているのです。