新約聖書冒頭の系図、それはいわば神の救いのファミリーヒストリー。丁寧にそれを読み解いていくならば、その歴史と救い主キリストが来られたという恵みを気付かされ、勇気をいただくのです。
アブラハムの子孫、それは信仰による始まりです。創造と堕落、その後の世界はノアの洪水で滅ぼさなければならないほど罪に満ちた世界です。そこから、神の選びによって始まったのがイスラエルです。それは世界の祝福のためでした。その祝福の絶頂にいたのがダビデです。周囲の国々を治め、王国を打ち立てました。しかし、その後の不信仰。そして、バビロン捕囚です。ダビデの子と言うとき、それはやがて来たるべき救い主と国の再興を意味することでした。そして、そこに与えられたキリスト=救い主が、「主は救い」を意味するイエスです。
ここに14代の時代区分が3回繰り返されています。それは、それぞれの時代を代表する名前を揃えています。アブラハム契約は神の選びです。そして、その祝福をいただいた第一世代。続くバビロン捕囚へは不信仰と神のさばきと試みの第二世代。神への不信仰は同時に隣人への愛の欠如に繋がります。公義がねじ曲げられ、弱者が切り捨てられます。そして、回復からの第三世代は試みを経て学んだに見える人が再び同じ過ちを繰り返してしまう弱い器であることを示しています。
そして、ここには女性の名前が出てきます。罪の塗りつぶしたいような黒歴史、そして、異邦人。この系図には、その罪の現実が赤裸々に残されています。そして、最後、「ヨセフがイエスを生んだ」ではなく、「このマリヤからお生まれになった」と注意深く書かれています。処女から生まれる。つまり罪なきルーツを持ちながら、この罪深い人の系図に身を置くということを同時に言い表しているのがこの言葉です。それは人の罪を負うために。罪なき方が救い主として来てくださったのです。