聖書の「聖」とは、取り分けること。一般に聖人と使われるような清らかなイメージとは結果的にそうであっても、元々は違う言葉です。聖別ということばも使われます。旧約聖書に出てくることばで考えてみましょう。
イスラエルの救いに失敗したモーセはミデヤンで羊飼いをしていました。そこに、主が現れて「あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」と言います(出3:1-5)。彼にとってはいつも遊牧をしていた場所の一つです。ここは神のおられる特別な場所だということです。そして、足のくつを脱ぐとは、自らの力によって生きることから、自分を捨てて、世から自分を取り分けて生きることです。
同じ迫りを受けたのはヨシュアです。エリコを直前にして抜き身の剣をもった神の使いが迫るのです。いよいよヨルダンを渡り、ヨシュアは成功続きです。人間というものは愚かなもので、うまくいっているときが危ないのです。何もかもうまく行かない時、私たちは必死です。そこに神の臨在を改めてヨシュアに迫ったのです。おごり高ぶりやすい人へこのペテロのことば、「心を引き締め、身を慎」むことを迫るのです。
地上を生きる私たち、それは世と罪との戦いです。私たちは思います。「完全なんてムリ、ムリ。だって、人間だもん。所詮、しょうがない。」しかし、イエスに従い、イエスにならい、この世から自分を取り分けることが求められていることです。どこであってもこの世から取り分けられ、神のものとされた聖なる場所。それをわきまえていますか?はきものを脱げ!自らの力によってではなく、神に明け渡していますか?それによってこの身を造り変えていただこうではありませんか。