「聖霊が導く救い」1ペテロ1:10-12

 たましいの救い、何ものにも代えがたい喜びをいただいている私たち、一方で地上の歩みの中にはどうにも越えがたい壁が立ちふさがります。

 預言者たち、彼らも壁がありました。その一人、エゼキエルは捕囚の地で預言した預言者です。民は『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』ということわざを繰り返しました。我々が捕囚の憂き目に遭っているのは、父祖たちの罪ゆえだと嘆いていたのです。エゼキエルは、「そうじゃない。あなたの罪が問題なのだ」と言うのです。自分の罪を認め、悔い改めることには壁があります。どこかに責任転嫁して言い逃れをするのが私たちの罪の性質です。

 預言者たちは救いについて調べました。イザヤ53章は苦難のしもべの章です。バビロニア捕囚こそが苦難、そこからの救いを求めました。解放は救いですが、民は再び悩みの中に置かれ、壁の向こうに再び壁。永遠の救いではありませんでした。また、御使いたちですら、その救いを知りません。最もイエスの近くにいたペテロもまた、理解できませんでした。十字架と復活による永遠の救い。それは民の願いだったのです。

 ここに、「今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです」とあります。エゼキエルの言う「新しい心、新しい霊」、それはペンテコステの日、聖霊がお降りになってはっきりしました。手紙の著者である当のペテロもそうです。その日、いままでどうにも崩せなかった壁、越えられなかった壁を聖霊が砕き、イエスの十字架の救いが人々に明らかにされたとき、大勢が信じて主に立ち返りました。聖霊よ。壁を崩したまえと祈りましょう。