ペンテコステ、それは聖霊がお下りになった日です。エペソの教会、それはパウロが3年半の間教え導いた教会です。その初め、第一声とでも言うべき言葉が「信じたとき、聖霊を受けましたか」でした。ところが彼らが答えたのは、「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いたこともありません」でした。彼らが受けたバプテスマは「ヨハネのバプテスマ」でした。それは悔い改めのしるしです。でも、それだけでは、不十分なのです。
ローマ書に、信仰義認に関わる大切な教理が教えられています。3:22に「イエス・キリストを信じることによって」と訳されていることばが、これは「イエス・キリストの真実」という別訳が注にあります。私たちの信仰、それはボタンの掛け違いをしてしまうように、信仰と言いながら、自らの力、肉の力を頼りすることがあるのです。「キリストの真実」、そこには、私たちの努力や私たちの側には何も救い得るものがないこと、神の恵みとあわれみ以外の何ものでもありません。それを受けること、それこそが信仰です。聖霊が向かわせるのは常にキリストです。
聖霊が下ったとき、それは、一つのブレークスルーが起こります。そのしるしがペンテコステから始まって、サマリヤで、異邦人が救われたカイサリヤで、そして、ここエペソでも起こったのです。
今日は、N兄の召天日です。彼が、依存症の中から救われた時、そして、イエスの名によってバプテスマを受けたときから、聖霊がキリストに向かわせ、多くの実を結びました。肉の力でいえば、酒にクスリに逃げていた彼が、キリストの心をいただきました。そして、聖霊によって、「赦しと恵み」の世界を生きた。私たちは一緒にそれを見ました。ペンテコステの朝、私たちは聖霊注がれてイエス様に向かい、その十字架の血潮によっていただいた恵みに満たされましょう。