「聞く耳がありますか」マルコ4:21-25

 この箇所は前の4つの種のたとえの続きです。「聞く耳があるなら、聞きなさい。」「聞いていることに注意しなさい。」と繰り返されて、よい地となって神のの言葉を聞くべくことに念を押しているのです。二つのたとえをおって問われていることを聞きたいと思います。

 イエスのたとえ、「明かり」とは、神のことばです。燭台の上に置き、周りを照らすときに「隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので、明らかにされないものはありません。」問われていることは、心の奥底にある、私たちの思いをも神の御前に問われるということです。使徒の働きのアナニヤとサッピラの事件はそれを表しています。(使徒5章)。人の目は表向きを取り繕ったり、体面を保つことができましょう。しかし神の目をごまかすことはできません。隠れた思いはどこかで露わにされ、偽りの代償は刈り取らなければならないのです。偽りが明るみに出て、主が打たれたときに、一同生じたのは恐れでした。

 続くたとえは、秤のたとえです。「あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ、その上に増し加えられます。」とイエスが言われるのは、私たちが人のことは目についても、自分のことには気づかない、わからないということが実に多いのです。ダビデのバテシェバ事件はそうです。預言者ナタンに、罪を指摘されたとき、話されたたとえに、人のことはわかっても、それが自分のことであるとは気づかなかったのです。自らが「秤」となり、すべてのことを判断しようというる思いが私たちの心の中に入ってくることがあるのです。そして、人のことばに耳を傾けることができなくなるような弱さをもっています。

 ですから、常に自分の心を耕し続け、常に自分の心を見張り続けなければならないのです。畑でよい実を実らせるコツ、それはよく手入れをすることです。みことばに照らされて心を耕し続けようではありませんか。