マルコの福音書は14章からいよいよ十字架に向かっていきます。「過越の祭り、すなわち種なしパンの祭りが二日後に迫っていた」とあります。それはエジプトで奴隷であったイスラエルの民を主が救い出してくださったことを記念する祭りです。種なしパンの祭りはこの過越の祭に続いて七日間守られる祭りです。二つの祭りが意味することは、「贖いと救い」です。
祭りが二日後に迫る中、「祭司長たちと律法学者たちは、イエスをだまして捕らえ、殺すための良い方法を探していた」のですが、「祭りの間はやめておこう。民が騒ぎを起こすといけない」と考えます。ところが、彼らの思惑とは違って、過越の祭り、その日にイエスは殺されるのです。イエスの十字架は、不慮の死でもなく、民の指導者たちのねたみのゆえ~もちろん、そのような側面もありますが~だけでもなく、新しい過越の小羊として、罪の奴隷である全人類の救いのための贖いの代価となる神のご計画、みこころのゆえなのです。
さて、そこに、一人の女性が、イエス様の頭にナルドの香油を注ぎかけました。しかも「壺を割り」です。割ってしまったらもう後戻りできません。そのすべてを彼女はイエス様のために注いだのです。贈り物は心です。「もったいない」との批判の声が飛びますが、彼女はただ、イエス様のために何かをしたい。自分にできることを精一杯ささげたのです。それをイエス様は喜んでくださいました。
この二日後、イエス様が十字架で死ぬことは、イエス様が前々から弟子たちに話していたことですが誰一人理解していません。イエス様は、この香油が埋葬の備えだとおっしゃいます。彼女の精一杯の献身は、そのように用いられていくのです。後先上手くやろう、コスパを考えて、あるいは結果を考えてどうしようか。私たちは考えますが、それよりも、「自分にできることを」喜んでおささげする。そのような歩みをおささげしようではありませんか。