私たちは無意識のうちに、ありのままの自分の姿を見ず、避ける傾向にあります。イエス様が「兄弟の目の中にちりを見つけながら自分の目の中の梁に気付かない」と例えたように、人のことはあれこれとよく見えて批判しながら、自分のことはわからないのです。姿形は鏡で見ますが、心の中を映すことは避けます。
さて、エペソの教会は、さながらペンテコステの日のような聖霊が下り、大リバイバルが起きました。異言を語り、預言をし、パウロは病をいやし、悪霊を追い出します。そのしるしを見て、魔よけ祈祷師はパウロの真似をします。すると、悪霊が彼らに飛びかかり打ち倒されるという出来事が起こりました。これを見た人々は恐れを感じて、御名をあがめるようになりました。
御名とは何でしょう。主はどのような名でご自身を知らされたでしょう。全能の神、在るという者、主の山に備えあり。そしてイエスの御名もそうです。名は体を表すのです。彼らは生ける全能の御名の前に照らされて、心の中を映し出されたのです。莫大な金を使い、頼っていた魔術の本は焼かれました。人々は自分の姿をさらけ出して告白し、悔い改めたのです。
私たちも同じです。聖書を通して神のみことばに照らすこと。交わりの中で自分を知らされること。聖霊が働いて認めざるを得なくさせること。そのように心の鏡に映し出されて、自らの姿を認め、さらけ出して委ねることを求められているのです。そのような人は主の前に、人の前に謙遜にさせられます。他の人に心を開き、神のみこころに目を開き、恵みを受けるのです。私たちに必要なことは多くはありません。日々心の鏡に向かい、主に整えていただこうではありませんか。