「苦しみを受け止める」使徒14:19-28

 使徒たちはどこへ行っても迫害を受けました。ペテロとヨハネは投獄され、以前のサウロはキリスト者と聞けば激しい迫害をし、ステパノ、ヤコブは殉教しました。、ここルステラの町でパウロは石打ちにされ、死んだとみなされるほどでした。なぜ、彼らは命を賭してでも伝道したのでしょうか。

 かつての使徒たちの関心時は常に「誰が一番偉いのか」ということでした。また、イエスが捕らえられて自分の身が危ういとなればちりぢりに逃げてしまいます。「自分がかわいい」のです。ペテロはイエスについていこうとしますが、結局はイエスを否み、男泣きまします。その彼らが変えられたのは、十字架と復活によってでした。それによって与えられた福音こそが彼らの力だったのです。

 キリスト者はいつもこの福音に立たなければなりません。私たちが力を失うのは、いつも福音から逸れるときです。2コリント11章でパウロは自分のあった苦しみについて語っています。迫害だけではなく、多くの苦難、日々押しかかる教会への心づかい、そのようなものにも圧迫されました。「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか」、そして自分には弱さしかないと言うのです。  

 そう、私たちのおごりや高ぶりは苦しみを通してそぎ落とされるのです。私たちはどこかで傷や痛み、苦しみや悩みは取り去れるべきものと考えます。一方、復活のイエス様には傷跡がありました。弱さを知らされたペテロに、不信仰なトマスに示されたのは十字架の傷でした。私たちの罪。それは苦しみを通して十字架を忍び、よみがえられたイエスを信じる信仰によってのみ、神のもとに生きるものと招かれているからです。

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