マルタ島に漂着したパウロら276人。島の人たちは親切にもてなしてくれました。そこでパウロはまむしにとりつかれます。人々は口々に「この人はきっと人殺しだ。海からはのがれたが、正義の女神はこの人を生かしてはおかないのだ」と言い合うのです。マルコ16章を見ると、復活の主は弟子たちに「蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます」と励ましました。
まさにその通り。パウロは害を受けません。一方で私たちにはそうでないこと、命を落とすようなことも起こります。なぜでしょう。それは主の許された命が期間限定であるからです。生きるにしても死ぬにしても、それを信じ委ねることができたなら、その人は幸せな人です。悔いて悔いて悔い切れないようなところから解放され、何があっても委ねる心を与えられるからです。
さて、そこでパウロは「たまたま」島の首長ポプリオの父の病を直します。人間生きていると「たまたま」ならぬ予期せぬハプニングが起こります。私たちの目にはそれが偶然のように映る出来事であっても、すべてのことは主の許しの中で起こっていて、そこで何をするのかが問われているのです。神が機会を備えてくださるのです。
一介の囚人に過ぎないパウロですが、この癒やしの出来事を通して尊敬を受けます。しかし、それはパウロ自身ではなく、神を証しするものです。ヤコブ書は「行いのない信仰はむなしい」ことがそのテーマの一つです。私たちも同じように主への信仰を働かせた行動をなすように導かれています。自分ではなく、主の器としてキリストを表し、証しする行動をするのです。主よ。あなたを証しする器としてくださいと祈り進みましょう。