「誤りを認める勇気はどこから」ヨハネ16:7-15

 アンデルセンの童話「裸の王様」は誰でも知っているでしょう。自分の姿がわからない人の愚かさを語った話です。人は聖霊が導くことなくして自分の罪の姿がわかりません。

 聖霊は三位一体の一人格です。創造のみわざも救いのみわざも父なる神、子なるイエスとともになさったのです。福音書の中に聖霊の働きはほとんど出てきませんが、イエス様は二つの大きなお約束を与えてくださいました。その一つは使徒の1:8、昇天直前の「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」という約束です。福音書では「力あるわざ」と使われています。ペンテコステの日、目には見えない聖霊が見える現れ、わざを示してくださいました。最も大きなわざは、三千人もの人たちの心に悔い改めを迫ったことでしょう。

 もう一つはこの箇所、最後の晩餐の席で「助け主」を与えるという約束です。似た言葉に「助け手」があります。人の創造の初めに女をして男の助け手としたことが教えられています。助け主、助け手、その最大の助けは自分では見えないものを鏡のように見せ、教え、導くことです。作家の三浦綾子さんは「罪を罪と感じないことが最大の罪だ」と語りました。それほどに人は鈍いのです。イエス様は人の目のちりに気づきながら、自分の目の梁に気づかないのがあなたの姿だと語りました。まさに裸の王様です。

 「助け主」、それはまた、傍らに立つ者という意味があります。聖霊は私たちと共にいて罪を教え、悔い改めに導き、そして、神の子として導いてくださるのです。過ちを認められないことほど愚かなことはありません。

主よ。私に罪を教えてください。それを認める勇気を与えてください。私をきよめてください。祈りをもって導きを求めましょう。

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