「賜物は誰のために」1ペテロ4:7-11

 「親切にもてなす」と訳されていることば、それは英語ではホスピタリティー、それは人を喜ばせること、人の喜びのために自分をささげることです。

 ところが、私たちに「つぶやき」は少なくありません。私たちの心に何が働いているのでしょう?それは、「不公平だ。面白くない」、あるいは「私ばっかり」という思いではないでしょうか。誰が見ていなくても、あるいは人に評価されようとそうでなかろうと、感謝されようとそうでなかろうと、神は公平に見ていて下さる。それを見失うとすぐに私たちは比較の世界に陥ります。だからこそ、ペテロはそう教えるのです。

 もう一つ、大切なこととして、「互いに」という言葉がでてきます。洗足の出来事の後にイエス様は「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と教えてくださいました。言うならば、イエス様との三角関係です。私たちの「互いに」には必ずイエス様がおられる。イエス様との愛のトライアングルを築くところは、祈りとともに互いの愛が正されていくのです。

 ペテロは続いて私たちに与えられた賜物について教えます。世はそれを能力あるいは努力、あるいはキャリヤやスキルと呼びます。神からの賜物と理解しないところでは、「つぶやき」が起こり、ねたみや嫉妬、強制や虐げ、優越感や劣等感、憤りや党派心を生み出されるばかりです。しかし、これは互いに仕え合うために与えられた賜物だと理解したときに、それは比較から解放されて、互いに仕え合うように導かれます。そして、そのように愛を全うすることこそ、神の御名があがめられ、御栄えが現されることです。これを選ぼうではありませんか。