イエス様の十字架への道、そこに関わる人たちを5つに分けて考えてみましょう。
弟子たち。彼らは逮捕の直前まで決して裏切らない。「たとえ死ななければならないとしても」と誓ったにも関わらず、みな逃げ去ります。最後までついていったペテロも自分の身に危険が迫れば、イエスを否みます。結局、自分の身が一番。それが彼らの姿です。
次に祭司長、律法学者、長老たち。彼らの思いはねたみです。いままで受けていた民の上に立つ立場と特権と敬意とが揺るがされた彼らは一方的な不正な裁判でイエスを排除しようと十字架に追いやります。
ピラト。彼は自らの保身を図ります。一度は「この人に罪を認めません」と宣言しながらも、役人である自分の立場を守ろうとします。ユダヤ人が騒動を起こして治めきれないと自らの首が飛ぶからです。
群衆たち。彼らは自分で決められず流される人たち。その合い言葉は「みんな」です。イエスのエルサレム入城の時には、熱狂的に迎えながら、ひとたび、態勢が変わると主体的な判断をせずに右に左に流されるのです。
兵士たち。彼らは本来、国の秩序維持のためにここに置かれた者たちです。しかし、彼らは人の命をもてあそびます。
あなたがここに居たら、どの立場にいて、どのようなことをしたでしょうか。どれかに当てはまらないでしょうか。誰もがみな十字架に追いやったのです。人が神から離れたゆえに正義も公義もないがしろにされます。それが「罪」です。ローマ1:21-32には、その結果の罪の現れについて教えています。
一方、イエスはこの十字架をあえて、耐え忍び、自らいのちを捨ててくださいました。その御前に今一度、我が罪がイエスを十字架につけたことの重みを深く覚えましょう。