鏡が映し出すもの。それは自分の姿です。一方で心の中や思いをありのまま見ることはとても難しいことです。旧約聖書はイスラエルの歴史の中で起こった様々な営みを描いています。それは読む者が自分自身の鏡のように見るためではないでしょうか。人のことは愚かだ、罪だと読むでしょう。でもそれは自分に当てはめるためなのです。
私は沖縄へ一週間旅して、改めてわかったことがあります。鹿児島よりも台湾が近く、福岡よりも上海が近く、東京よりもマニラに近いのです。今は日本ですが、アジアの国々の中で重要な位置にあるということです。国と国の間に挟まれて今も昔も外交上の困難な問題をいつも抱えています。
イスラエルもそうでした。国と国の間でアハブの時代、都であるサマリヤはアラムに包囲され、もう言うなりになるしかないところに追い込まれます。その中で、彼は民と預言者を通して語られる主の声によってこれに立ち向かい大勝利を収めます。しかも、戦いに勝利しただけではなく、逃げ込んだアフェクの町の城壁が崩れてアラムを壊滅的にするまで追い込むのです。主のみわざです。ところが、彼は主に従い通すことをしません。勝てない戦に勝ったのにもかかわらずです。神のみわざを見ながら、経験していながら、従うことを拒み続けます。
さて、自分自身を映すとどうでしょうか。私たちは国を揺るがすような大きな出来事を経験しました。でもどこか国がどうする。政治がどうすると人ごとです。本当に問われているのはあなた自身です。「いつまでも残るもの」、そのために生きているでしょうか。アハブのように目の前のことに右往左往する人生でしょうか。自分自身を省み、主の招きに応えようではありませんか。
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