今週、東日本大震災からちょうど10年を迎えます。1年、3年は記憶もよみがえり、心も揺さぶられましたが、10年という年月は出来事を消化し、平時に戻っています。
10年の間、何度か三陸を訪れました。陸前高田では津波にのみ込まれた市庁舎、屋上に上って、ここに逃げた人たちの心の痛みにことばを失い、石巻では市街地から海側のすべてが流された跡を見、女川の漁港では、横倒しになったコンクリート造りの銀行。見るものすべてが驚きでした。福島の原発にも行きました。うち捨てられた家々、除染土が入ったフレコンバックの山と行き交う作業車。見えない放射線に何百年も向き合っていかなければならない深刻さを覚えます。
見えるものは新しくなりましたが、何よりも、人の心の移ろいやすさ、あれだけのものを見ていながらも変わらない変えられない頑なさを覚えます。悲しみの話を聞く度に涙が流れ、大切なものを問われたはずでした。何よりも人の絆が大切で、助け合っていこうと心に誓ったはずでした。それが実際どうだったのか。キリスト者として十字架の主イエス様がすべてだと思いを新たにしたはずです。その恵みを証しし、その愛をもって奉仕する者にさせてくださいと祈り、献身を新たにしたはずでした。
人ごとではありません。自らの心の内こそが今一度問わなければならないことです。世を嘆いて批判することは簡単です。あれもダメ、これもダメ。あれもなっちゃいない。これもなっちゃいない。それでは自分はどうなのか。罪深く、乏しい器に過ぎません。常に神の御前にヘリくださって告白し、また、主のあわれみの器として用いていただくことを祈りささげていきたいと思います。
「このあわれみの器として、神は私たちを…召してくださったのです。」(ローマ9:24)