なくし物をするって

 最近、なくし物をした人を見るととっても申し訳ないのですが、ちょっと嬉しくなります。ヒドイですね。ホントにゴメンナサイ。あぁ、自分だけじゃないって、スゴク慰められるのです。先日もある姉妹に「なくし物ってする?」と聞いたら、「するする。しょっちゅう」って。いつもきちんとしていて、私のように抜けているようには見えないので(失礼ですね)、これまた慰められました。

 聖書の中にも「女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。」(ルカ15:9)というたとえ話がでてきます。

 あぁ、なくし物をするって、忙しい追われるような生活をする現代人だけじゃないんだなって思うのですが、それでも自分で自分が情けなくなります。いかに、こんなことのために時間を浪費していることか。なくし物ベスト3は、鍵、財布、携帯。小さくて絶えず持ち歩きます。でも、ひょいとそこらに置いてしまう。いっそ、3つがひとつになって、肌身離さず持ち歩けるかなぁとか、そういえば、携帯一つでお財布になる、モバイルSuicaなんてのもあるなぁとか。思ったりします。

 そして、ちょっとグチのような、困ったねぇとか、私もやっちゃったとか、「オチ」のない話を書いて、皆さんの同情を誘おうというわけではないのですが、人にはつくづく限りがあるなぁと思うのです。そして、ミスや失敗、欠けや弱さ、そのようなものがせめて人から責められることがない暖かな交わりを築きたいなぁと思うのです。それだけじゃない。多くの点で私たちの弱さが覆われる主にある交わりを築きましょう。