最近つくづく思うことがあります。それは私たちが見聞きすること、表に表れることはほんの一部であって、隠されていて見えないことが少なくないといういうことです。表向きには体面を保っていること、あるいは体裁を繕っていることがあっても、現実はまったく違うということはどこでも聞きます。政治の世界も、報道されるできごともしかり、私たちが接する人の中にも、「知らなかった」ということもしばしば。
アダムとエバが神に逆らい、木の実を食べたとき、彼らは互いが裸であることを知り、いちじくの葉をつづり合わせて腰を覆いました。この出来事は非常に象徴的です。罪の結果、人と人との間には壁ができて、あなたには見せられない。あなたには見せたくない。という思いが互いに生じたということです。その裏にはどうせわかってくれない。受け止めてもらえないという相手に対する不信があるのです。
私たちがそれを乗り越えていくために必要なことはどんなことでしょうか。
「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」エペソ4:25
それは、新しい人、新しいからだという理解が必要です。古い人、古いからだはいつまでもいちじくの葉を必要とします。罪を知られることへの恐れ、人から責められることへの恐れ、だから人を信じられないという思いをいつまでも持ち続けるのです。私たちは、恵みによって赦された者たちです。互いの交わりにおいて、赦された者でたちであるゆえに、互いを赦します。決して捨てません。そこから、真実な交わりを築くことができるのです。それを信じて歩む者とさせていただこうではありませんか。