よみがえり、あきらめない

 「もう、ダメだ。もう、終わりだ。」そう思ったことはないでしょうか。十字架を前にして弟子たちは散ってしまいました。その後何をしていたのか福音書には記されていません。あの亜麻布を脱ぎ捨てて逃げた弟子はどこへ行ったのでしょうか。大祭司の庭で男泣きに泣いたペテロはどこで何をしていたのでしょうか。

 よみがえりの朝、マグダラのマリヤたちが御使いにイエスのよみがえりを告げられた後に知らせたのは「ペテロと仲間たち」とありますから、彼らは散った後、再び集まっていたのでしょう。おそらく、十字架を遠巻きに見ていたと思います。それでもイエスの下げ渡しを願ったのはアリマタヤのヨセフですから、彼らは表だったところへいることはできませんでした。イエスの仲間だと思われたら何をされるかわからないと恐れを抱いていたからです。

 その彼らのところによみがえりの知らせが届きます。女たちのたわごとのように思い信じない者たちもいる中、半信半疑で墓へ走ったペテロとヨハネ。いったい何が起こったのかは彼らの理解を超えていました。「もう、すべてが終わった」と思っていたからです。この数年、イエスがすべてだったはずです。すべてを捨ててイエスに従いてきたけれど、もう終わった。それもまた受け止めきれない思いでいたことでしょう。

 ところがその晩、彼らのところに現れ、ガリラヤでは新しい使命を委ねてくださいました。それに慰めと励ましをいただいて弟子たちは新しく造り変えられました。よみがえりは、絶望を希望に、落胆を奮起に、あきらめを勇気に、無力さをゆだねる平安に、敗北を勝利へと変えたのです。それは人のちっぽけな枠には収まりきらない神のみわざです。人にはできないことが神にはできるのです。私たちもあきらめないで、よみがえりの主を信じる信仰によって立とうではありませんか。