イエスのみわざ(2)~身代わりの十字架と贖い~信仰入門XV

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」マルコ10:45

キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。1テモテ2:6

 イエスのみわざの中心は「贖い(あがない)」です。「贖い」ということばは、一般にはほとんど使われないことばです。「償い」ということばに似ていますが、違います。どのような意味をもったことなのでしょうか。まずは、旧約聖書にでてくる出来事から説明しましょう。

 エジプトで奴隷であったイスラエル人は神の不思議なわざによって救い出されます。彼らの父祖に結ばれた契約のゆえです。「贖う」とは、「価をもって、自分のものを買い戻す」、あるいは「復讐をもって取り戻す」という意味です。主はエジプトの初子を打つという災禍をもってさばきますが、さばきを免れるために、羊のいのちを代償としてそのいのちのシンボルである血を門柱とかもいに塗った家を過ぎ越されました。子羊のいのちの代価をもって、ご自分の民を救い、取り戻されたのです。その救いを記念して彼らは過越の祭りを祝い、神の恵みを覚えました。

 さて、神のものとされた彼らに与えた律法の中に、主はこの「贖い」のわざを覚えるように土地に関するおきてを定めました。貧しくなって土地を売ってしまったら、買い戻しの権利のある親類がその土地を買い戻さなければならないというおきてで、その具体例がルツ記のストーリーです。

 エリレメク一家はききんのためモアブの地に避難します。そこへ嫁いだのがルツです。エリレメクとルツの夫が死に、残された二人はイスラエルに帰郷します。落ち穂拾いをしながら暮らしを立てる彼女たちを人手にわたった相続地とともに買い戻したのがボアズです。相続地とともにエリレメクの家にいわば婿入りしなければならなりませんでした。代価、それもお金だけではない大きな犠牲を払って救い出すのが「贖い」です。

 また、大祭司の働きにとってこの「贖い」は最大の務めでした。大祭司は年に一度、第七の月の十日、大贖罪の日に動物を罪のためのいけにえとしてささげ、その血を幕屋の中の契約の箱の蓋である贖いの蓋に振りかけて罪の贖いをしました。神がその方法を示して下さったので、それを信じて行えば神は人の罪を赦し、神との和解を許されたのです。罪のために死というさばきを受けなければならない人に代わって、いえにえの血が流されたのです。しかし、それは年ごとに毎年、毎年繰り返されなければならない不完全なものでした。ときに不信仰になっておろそかにされることしばしだったのです。

 このように約束・契約の民であったイスラエルの歴史、旧約聖書の歴史の中に「贖い」という神の救い、恵みが教えられています。

 さて、救い主(ヘブル語でメシヤ、ギリシャ語でキリスト)を待ち望む弟子たちが願っていたことは「イスラエルの贖われること」でした。それは、ローマの属国とされていた国の再興です。イエスのなさる数々のしるし、権威あることばと行動に弟子たちは「この方こそイスラエルを贖ってくださるお方だ。かつてエジプトから救い出されたようにローマから救い出して自由を与えてくださる」と期待をもって従ったのです。ですから、イエスが捕らえられ、十字架に架けられ、三日目によみがえらなければならないと言い始めたときにはイエスを諫めるほどでした。あくまで彼らが見ていたものは目に見えるものだったのです。

 しかし、真に国が造り変えられるために、世界が造り変えられるために必要なことは、罪の解決です。罪からの救いです。罪こそが世界のすべての問題の種であり、いわば、世界は罪の奴隷です。創世記の最初を読んでそのことを一緒に考えました。もともと神に造られた人とその世界は、「すべてが良かった」のです。それが罪によって壊されてしまった。人はその中で溺れています。どうにか救われたいと叫ぶ声が世界のあちこち、私たちの身近なところから聞こえてきます。

 その解決を国に求めても、誰かに求めても決して変わりません。人そのものが変わらなければ、あなたが救われなければ、変えられなければならないのです。しかし人は自分で自分を救うことができません。

 罪の連鎖の中、罪の原理がすべてを覆っている世界の中から、贖われるために神が差し出してくださった贖いの代価が主イエスのいのちであり、十字架の死なのです。その死の代価をもって、罪の奴隷から解放し、喜びと愛をもって生きるようにと神は願っておられます。ひとり子イエスをお与えになるほどに、私たちをいつくしみ、愛しておられます。「我が罪、十字架のイエスの血により贖われたり」と信じるなら、あなたも救われます。