イエスが十字架に架けられ十二時になったとき、全地が暗くなって午後三時まで続きました。福音書はこの闇をごく簡単にしか記していません。そして、その暗闇の終わりに、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれてイエスは息を引き取りました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びです。
暗闇には象徴的な意味があります。それは神のさばきの象徴です。アダムとエバは罪を犯した時から互いを、そして神の前から身を隠します。光のもとに出ることができませんでした。出エジプトのときには、過越の前の最後のしるしが3日間の暗闇でした。見ることも、立つこともできませんでした。アモス8章には「わたしは真昼に太陽を沈ませ、日盛りに地を暗くし・・その終わりを苦い日のようにする。・・・その日には、美しい若い女も、若い男も、渇きのために衰え果てる」との預言があります。人はその罪ゆえに暗闇の中に置かれているのです。
人は罪ゆえに闇の中を生きていて、何が正しいのか、間違っているのか、何がよい道なのか、本当の幸いなのかわかりません。暗闇の中で何もかも手探りです。そのすべてをイエスは十字架の上でその身に負われました。ひたすらにそれを忍んでくださいました。
ヨハネの福音書はその一番はじめに、「すべての人を照らすまことの光」である救い主イエス・キリストの到来を語っています。でもその救いの光は、闇を経験することなしには決して与えられません。十字架の闇を考えてみてください。真昼に暗闇です。全地がくまなく暗闇になりました。それは私たちの現実です。そのさばきの中で叫ばれた叫びは私の叫び、まさに身代わりの叫びです。イエスがその身に負って下さった御苦しみゆえの救いを覚え、受難週を過ごしましょう。
(2008.3.16再掲)