イエスの復活(1)〜復活は本当なのか〜~信仰入門XVI

「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」・・・「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」ヨハネ20:25-27

 人は死ねば帰っては来ない。それが人の常識です。そして死の向こう側にあることは誰も確かなことを言うことができない。だから人はみな死を恐れます。生まれ変わりを信じたり、祖霊となるというような漠然とした死生観を日本人はもっています。しかしながら、死を乗り越えてよみがえり、生きておられるお方はただ一人だけです。

 さて、ベタニヤのラザロが死んだときのことです。イエスは「彼のところに行きましょう」と言います。それに対してトマスは、「私たちも 行って、主といっしょに死のうではないか」と言います。イエスがいよいよ革命を起こして祖国イスラエルを回復してくださる時が来たのだ。命を賭けて立ち上がろうとのメッセージだと受けとったのです。その時が来たなら、私を右に、私を左になどと、誰が一番偉くなるかということが常に弟子たちの関心事でした。あくまでトマスと弟子たちの考えが及ぶ範囲は生きている間のことなのです。

 考えて見るとおおよそ人が考えていることというのは、どれだけ長生きするか。生きている間にどれだけ充実したよい人生を送るかということです。少なくともこの国の中では、どのように老い、どのように死ぬかということを考えたり、口にすることはほとんどありません。

 最後の晩餐の席でトマスはイエスに言います。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちに はわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」それまでにイエスは弟子たちによみがえりについてお話しになっておられたのですが、何一つ理解できなかったのです。イエスは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言われました。しかし、父のみもと、天に迎えられることは彼らには理解できなかったのです。また、イエスがこれからなさろうとしておられた十字架と復活の意味も。

 さて、復活の朝、最初に墓に向かったのはマグダラのマリヤとほかのマリヤです。彼女たちは、イエスの遺体に香油を塗ろうと墓に向かいました。墓のふたをどのようにしてあけようかと思案しながら墓に向かったのです。

 民の指導者たちはイエスがよみがえると言っていたため、弟子たちがイエスの遺体を運び出してイエスはよみがえったなどと言い広めたりしたら混乱することを恐れて番兵をつけます。

 そんな思案も心配も吹き飛ばしてイエスはよみがえられました。番兵が口封じの金をもらったことまで記録されています。

 女たちは弟子たちに知らせに走り、ペテロとヨハネは墓に行きます。確かにイエスがおられないことを見届けると、恐れおののいて家に帰ってしまいます。どのようにこの出来事を受けとったらいいのかわからなかったのです。

 その日の夕方、弟子たちが揃っていたところにイエスが現れました。弟子たちは大喜びでよみがえられたイエスを迎えました。ところが、そこにトマスはいなかったのです。他の10人がイエスに会ったと言っても、自分の目で確かめるまでは決して信じないと言い張ったのがトマスです。

 疑う人はなんとしても疑うのです。イエスの復活を疑う人はなんとか合理的な説明をしようと試みました。あまりのショックにみなで幻想を見て思い込んだんだとか、イエスは本当に死んだのではなく、気絶したか仮死状態にあったとか、あるいは民の指導者たちが思ったように弟子たちが盗んでいって伝説を作ったとか。イエスは心の中によみがえったとか・・・。

 でもそれらはかえって不自然です。イエスは疑うトマスにも現れて、その御傷を示してくださいました。そして、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」と言われました。

 そう、この弟子たちの証言を聞いても信じない者たちが大勢いたのです。この後、五百人以上の兄弟たちに現れたと記録されています。それにも関わらず、事実がありながらも、受け止めることができない人たちのほうが多かったのです。

 よみがえりなど起こるわけがない。あくまで自分の殻の中にあることでしかものを考えられない頑なな性質を人は持っています。イエスは「狭き門より入れ」と言われました。狭き門から入るためには、自分のいままで、身につけてきた鎧を脱ぎ、兜を捨て、持って来た考え方を捨てて、幼子のように素直にみことばと事実に聞かなければならないのです。そのときにこそ、人の理解を超えた復活の事実を認め、神の救いを受けとることができるのです。