キリストにある新しいいのち(1)〜新しい戒め、私があなたがたを愛したように〜~信仰入門XVIII

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」ヨハネ13:34, 35

 キリストの身代わりの十字架の贖い、復活を信じた者は、神によって新しく生まれた者です。新しいいのちは、はじめに神が創造されたいのちのルーツに立ち返って、本当のいのちの祝福と喜びを生きるようにと招かれています。それは、常にこの「私があなたがたを愛したように」という主イエスの十字架の愛、神の愛を思い起こして、主イエスとともに生きる生活です。

 古い生き方、神抜きの人の生き方は、常に自分が中心です。自分が人生の主(ぬし)であり、自分の思いや願いの通りに、あるいは自分の欲に生きることが人生の目的です。その人間同志が生きるならば、残念ながら自己主張のぶつかり合いです。人はそんな中で、あきらめ妥協したり、我慢したりしながら生きています。愛を歌い、愛に飢え渇いていますが、その飢え渇きは満たされません。

 日本語では愛ということばは一つのことばで多様な意味を持っていますが、聖書のことばギリシャ語には愛を表す4つのことばがあります。

 第一に、聖書には出てきませんが、ストロゲーということばが使われる愛で、日本語で言えば「情けの愛」です。「りっしんべん」=心がつくように、同情や愛情、自然にわき起こってくる気持ちです。小さな赤ちゃんを見れば愛おしいと思い、困っている人を見ればかわいそう、なんとかしてあげたいと私たちは思います。けれどもこの愛は気まぐれです。同じ事を見ても、そう思うこともあれば、心動かないこともあります。あるいは自分に関係するかしないかでも大きく違います。

 第二は、フィリアという言葉です。日本語では友愛、友情などと訳されますが、言うならば、「ギブ・アンド・テイクの愛」です。

 障がいのために口で絵を描く星野富弘さんが、その怪我で入院中、友人たちは「星野、毎日来るからな」と励ますも、長い入院生活に一人減り、二人減り、二日になり、一週間になり、一ヶ月になり、みな見舞いに行き続けるということができなかったと聞きました。

 特に男性はファンクショナル(機能的)な友人関係を作ります。会社でその仕事のために堅い結束で戦った者たちも、それが終われば、一緒に過ごしたりはしません。何かを与え、何かを受け、あるいは共有する関係だからです。

 ご近所づきあいも、親戚づきあいも、ご無礼があるようなことがあれば、人は寄りつかなくなります。返礼に気を遣い、「あれだけ、やってやったのに」などと見返りを期待するのです。

 第三は、エロスの愛です。性愛などと訳されますが、もともとは、「価値あるものを愛する愛」という意味を持ちます。ですから、「あばたもえくぼ」などと言われるのです。それは「夢中の愛」です。しかし、熱しやすく冷めやすい性質をもっています。人の愛はそのようにどこかに限界があるのです。

  第四の愛は、「条件なく一方的に与えることを喜ぶ愛」です。ギリシャ語には当てはまることばがなく、アガペーということばをこれに当てました。自分を捨てて、意志をもって与え続ける愛、キリストの十字架の愛です。あくまでいのちを捨てて愛してくださった愛です。

 主イエスは十字架におかかりになる前に、あらかじめ最後の晩餐の席で弟子たちにこのことを教えられました。足を洗うことは最もしんがりの者がする仕事でした。常に誰が一番偉いのかと論じ合っていた弟子達~私たちもそうなのですが~に愛するということはどのようなことであるか、身近なことを身をもって示されたのです。

 「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とはこの後に語られた戒めです。それを主は新しい戒めとして教えられました。それはイエスの十字架の愛に基づいた戒めであるがゆえに新しいのです。

 愛することがどんなに大切なことか、美しいことか私たちは知っています。しかし、私たちは罪ゆえに心から喜んで与える愛ではなくして、どこか自分中心な愛しか持ち得ません。頭では崇高なこと、素晴らしいこととわかってはいるけれども、自分が痛むこと、自分を捨てることはできないのです。

 それを乗り越えて真の愛に生きるためには、ご自身、十字架でいのちをも惜しまずに捨てられた愛を自分が受けたということ抜きにしてはあり得ません。キリストを信じるとは、その模範に習えということではありません。一方的にいのちを捨ててくださったお方の前に、明け渡すことです。そのときに、この新しい戒めに生きる恵みにあずかるのです。