先週、三つの映画を見ました。その一つが「終戦のエンペラー」、天皇の戦争責任に関するGHQの取扱いを描いた映画です。米国映画ですが、原案や製作は日本人によるものです。この映画は日本人と天皇、そのあり方というものを考えさせられます。歴史に疎い私ですが、イスラエル、ユダの王たちを学びながら考えさせられます。
日本人は結構、皇室好きです。年始の参賀や各地の訪問、若い皇族たちの立ち振る舞いを報じるものを見ると、その人気がよくわかります。天皇は古来から祭祀王として、日本の歴史に君臨してきました。その政治的権威は歴史的に絶対的な権威を持つ時代あり、江戸時代の禁中並公家諸法度のように制限を受けるような時代あり、英国の立憲君主制を取り入れた明治時代からは「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」という形式上、絶対権を持つ時代あり、そして、今は象徴天皇制と移り変わっています。
とりわけ、戦争責任については、『天皇が御前会議でも「お気持ち」のほのめかししかしておらず、また白黒をつけない日本の文化により、不関与の証拠も、また確たる開戦命令の事実も見出せない。』という映画での理解のようなものもあります。映画の中では、西田敏行が演じる軍人の述懐に「あの時、戦争に浮かされた」と言われるように、神格化、偶像化されて、国の体制を一つにまとめるための手段に使われやすいのです。
それは、日本だけではないでしょう。大義のために持ち出され偶像化されるもの、それはバベルの日以来、かたちを変えては人の歴史の中に現れてきました。そして、それはこの国でも再び起こることもあるのです。そして、それに同調する罪を戦時中、教会も犯しました。コロナの時、同調を求める力は強く働きました。ですから周りに流されずに主にあって、自らを堅く保つことの大切さを心に留めて置きたいのです。