人は愛する者の死に悼み悲しみます。内村鑑三は、愛妻・加寿子の死の後に「キリスト信徒のなぐさめ」を著し、その中にこう書きます。
「医師、余の容態を見て興奮剤と睡眠薬とをすすむ。しかれども何者か傷める心を治せんや。友人は転地と旅行をすすむ。しかれども山川今は余の敵なり。哲理的冷眼を以て死を学び、思考を転ぜんとするも得ず、牧師の慰言も親友の勧告も今は怨念を起こすのみにして、余は荒熊のごとくになり、「愛する者を余に返せ」と言うよりほかにはなきにいたれり。ああ余を医する薬はなきか。宇宙間、余を復活せしむるの力は存せざるか。万物ことごとく希望あり、余のみ失望を以て終わるべきか。」
人は死という取り戻すことのできない別れを迎えると、どのように処したらいいのかわからなくなるものです。頭では理解していても、どれほど心備えをしていたとしても、心は追いついていかないからです。畳みかけるようにしなければならないことがあり、慌ただしく葬儀を出した後、別れの現実がやってきます。最低一年間は、どの方に伺っても、去年の今頃は「ああだった、こうだった」と思い返しては寂しさが募ると言います。悲しみや寂しさは神が時間とともに和らげてくださることでしょう。
そのような中にあっても、キリスト者には希望があります。それはキリストの再臨の日に、復活のからだをいただいて、永遠に神とともにいるという希望です。悲しみの中にも望みがあることを覚えましょう。
眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。….主は…ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり…私たちは、いつまでも主とともにいることになります。1テサロニケ4:13-18(2006.4.30再掲)