日本人の心と人権、自立と連帯

 「自警警察」、あるいは「公開処刑」なることばがメディアに度々登場します。コロナの感染に目を光らせ、非難や中傷をする。あるいはネット上で犯人捜しをし、実名や住所、顔写真まで公開する。そして、それが誤った情報で濡れ衣を着せられた人が困惑と被害に遭うような事態です。戦時中、「ぜいたくは敵だ」と「パーマネントをかけた人、通るべからず」と道を塞いだり、石を投げた少女時代を後悔する記事を読みました。
 「非常事態宣言」、あるいは学校の閉鎖要請は何だったでしょう。今や、それを数倍超える勢いで感染拡大し、各地でクラスターが発生しています。科学的に明快な説明と協力を求めるなら、みな納得するでしょう。ところが、どこか精神論的な匂いがします。それはまた、戦時中の精神論と重なります。戦地の状況は一切隠されたまま、全滅は玉砕、撤退は転進とすり替えられ、「負ける訳がない」あるいは「神風が吹く」と信じ込まされたこととよく似ているように思うのです。
 そのような動きになるのは、どこか日本という国、あるいは日本人の共通する物事への向き合い方があるように思うのです。それは個々人の人格が尊重されることよりも、よく言えば和を重んじる、別のことばで言えば、周りを見て物事決め、個というもの、あるいは一人一人の人格、人権というものがあやふやのように思うのです。「基本的人権」が奪われた時代があったからこそ、戦後、憲法に定めた理想であったわけですが、いまだ根付いていないのではないかと思うのです。
 その基となるのは、神が造られた尊いいのちと人格という人間理解でしょう。それゆえの一人一人の自立と連帯。主にあって、私たちが祈り求めるべきは、そこにあるのではないかと思うのです。そして、一人一人が神の尊い器であり、互いを尊重することを心に刻んで学び続けたいと思います。そこに平和の鍵を見つけたいと思います。