旧約聖書の歴史と選び(1)〜信仰入門IIX

あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」創世記28:14,15

聖書を読むと、その教えは必ずしも系統だって書かれているわけではありません。神を知ることは人を知ることと同じで、紋切り型にこうだと言い切るようなものではなく、一つ一つの出来事、一つ一つのエピソードを通してどのように人と関わるお方なのかを教えているのです。新約聖書は主にイエスの教えと救いについて語っています。一方、旧約聖書は主にイスラエル民族の歴史です。神はそれを通して何を語ろうとしておられるのでしょう。

私たちには馴染みの薄いその歴史や文化ですが、その中心とは人というもの、徹底して悔い改めるべき罪人であるということです。時代や文化を超えた人の現実です。罪の本質は、神から離れ、「あなたより私」という原理で自分中心、自己中心に生きることだということ、その罪は連鎖し、その罪の縄目に縛られて私たちは生きているということをお話ししました。旧約聖書は、それがいかに逃れようもなく、人が自分で自分を救えないものかを教えています。また、旧約聖書は同時に神があわれみ深く、人を見捨てることなく、忍耐をもって愛し、導いて下さるのかを教えています。短く、旧約聖書の歴史をまとめてみましょう。

旧約聖書を理解する上で大切な鍵の一つは「選び」です。神は、まず、アブラハムをお選びになりました。それは彼と彼の子孫によって全世界を祝福するためです。圧倒的に罪に支配された世にあって、神は一握りの人たちを通して全体の祝福の基としたのです。イエス様はそれを「地の塩、世の光」と呼びました。選ばれたアブラハム、その息子イサク、ヤコブというイスラエル人の族長たちの歩みも決して選びにふさわしい歩みであったわけではありません。そんな彼らを導いたのは神のあわれみによるのです。

ヤコブはイスラエルと呼ばれるようになり、彼の時代、民は飢饉のカナンを避けてエジプトに住むようになります。彼らはエジプトでの長い生活の中で奴隷とされますが、そこから救い出されます。それが出エジプトの出来事で、そのために主はモーセを遣わしました。奴隷から解放されて自由の身となる、その救いのしるしは子羊の血でした。エジプトはかたくなに彼らの解放を拒みましたが、神はそのエジプトに初子を殺すというさばきをなさったのです。一方で子羊の血をかもいに塗った家だけは過ぎ越されました。神のことばを信じた者たちが救われたのです。本来、裁かれ、滅ぼされても同然の罪人である者を神は愛おしみ、あわれんで救おうと選んでくださったのです。その招きを信じ従うことが信仰です。

奴隷であったエジプトから救われ解放されたイスラエルの民は、神の約束の地、カナンへと旅立ちますが、試みを受けます。途上、荒野で食べ物がないと言ってはつぶやき、水がないといってはつぶやき、カナンを目前にして、あの地には強い先住民がいて、私たちは約束の地に入れない。エジプトで奴隷の方がまだましだったなどと言い出す始末です。結果、彼らは40年の間荒野をさまようこととなりました。

世代が変わって主はヨシュアをリーダーに立てて、カナンを占領します。その町々を手にしたのもすべて神の恵みによるものでした。勝ち目のないような戦いに勝ったのはただ信仰によって神がことをなしてくださったからです。ここで彼らは先住の民を滅ぼすようにと命じられていました。しかし、それを果たすことをしませんでした。惜しんだのです。神に聞き従うよりも、目の前の財産を自分で確保し、欲を満たし、自分で安心したかったのです。驚くような神の恵みを目の当たりにしていながらです。それが罪です。

この後の時代、カナンは占領したものの、「イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた(士師記21:25)」という時代が続きます。士師の時代です。彼らの歩みが神から離れると、イスラエルは周りの国々から攻められ、圧迫されます。自分たちではどうにもできなくなって主に叫び求めると、主は士師を起こして国を救われます。ところが再び主の恵みを忘れて神から離れます。すると主は再び士師を起こして救われます。その繰り返しです。人間は過去に学ぶことなく、同じ過ち、同じ罪を何度も何度も繰り返してしまう愚かなものなのです。

彼らはその原因は周りの国のように王がいないからだと言い始めます。そして立てられたのがサウル王であり、続くダビデ、ソロモンと続く王国です。しかし、その王国を治めることを委ねられた王たちは己の欲のために与えられた権力を乱用するようになります。サウルは嫉妬にかられ、ダビデは過信が罪につけいる隙を与えて失敗を犯し、ソロモンは富と繁栄が妥協と神への信頼を失わせました。初めはそうでなかったはずなのですが、弱い人間は簡単に罪に屈してしまうものなのです。
主はそんな罪深い者たちを見捨てることなく、何度でも預言者を遣わして語りかけて下さっています。そしてあなたにもみことばを通して罪を認め、悔い改めを願っておられるのです。