先週はT姉の洗礼式が行われました。主がここまで導いてきてくださった恵みをともに感謝しつつ、私たちがいただいている洗礼の意味を今一度確認しておきましょう。
教会には洗礼(バプテスマ)と聖餐の二つ聖礼典がであります。この二つは主イエス・キリストによって制定され、代々の教会において重んじられきました。洗礼は「キリストの死と復活にあずかるバプテスマ」と聖書にあるように、私たちの罪の「古い人」がキリストと共に死んで葬られ、キリストが死からよみがえられたように、私たちもキリストの復活にあずかり、新しいいのちに生きるものとされたしるしとして受けるものです。
水によるバプテスマは、このことを象徴的に表わすものです。バプテスマには水でからだを洗うという意味があります。つまり罪がキリストの血によって洗われたということを意味します。ですから、わたしたちの教会では普通、全身を水につけ、水の中から立ち上がるという方法でバプテスマを行ないます。
信仰を持つということは、心の内側の問題で、内的な決断によるものです。しかし目に見えないものは目に見えるように表さなければなりません。バプテスマは、信仰を持ったということ、すなわち古い自分が死んで、キリストとともに新しいいのちによみがえったことを、神の前に、また人々の前に見えるかたちで表わすことなのです(使徒2:38、8:12、Ⅰペテロ3:21)。いわばキリストの花嫁としての結婚式です。
洗礼はまた、キリストのからだである教会の一員として加わることを意味します。教会を離れての信仰はありません。神は自分勝手に歩んできた私たちが、互いに愛し合う交わりとして教会を与え、神の御栄えを表すようにしてくださいました。ですから、これからはキリストのからだの一部として、また器官として仕える歩みをすることを告白するのです。神の恵みによって洗礼に招かれたことを感謝いたしましょう。
(牧師記、再掲)