牧師の信仰入門XIX キリストにある新しいいのち(2)〜御霊に導かれて歩む

 肉の行いは明白であって、次のようなものです。…しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。ガラテヤ5:22

 キリスト者は十字架と復活を信じる信仰によって罪から救われた者です。しかしながら、救われたからと言っても、罪を犯さなくなるわけではありません。いやむしろ、いままでは気付かなかった罪に敏感になり、それがゆえの苦しみを感じ、悩むこともあります。そんなときに私たちの心をよぎるのは「人間なんて所詮罪人に過ぎない」とか「どうせ人間そんなもんだ」という思いではないでしょうか。いとも簡単に罪に敗け、あきらめてしまうことがあるのです。しかし、神が私たちを罪の中から救い出してくださったのは、私たちが新たにきよい歩みをし、神の栄光を表すためです。死からよみがえったキリストは罪と死に勝利したのです。私たちはその恵みをないがしろにしてはなりません。恵みとは、本来受けるにふさわしくない者に一方的に与えられることを意味します。その恵みに応える歩みをするために私たちは救われたのです。私たちは自分中心のむなしい罪の生き方から、神中心の生き方に生き方を転換させていただいたいのです。

 イエス様が赦しについてお話しになったたとえ話がマタイ18章にあります。弟子たちがイエス様に訊ねたのです。「何度まで赦すべきでしょうか、七度まででしょうか」と。イエスは「七を七十倍するまで」、つまり限りなく赦せと言います。たとえはこうです。王に多額の借金があるしもべを王があわれみ、借金を免除します。ところが、その男は自分にわずかな借金のある人を赦さずに牢に投げ入れるのです。王にそれが知れると、王は「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」としもべを牢に投げ込みます。恵みにあずかっていながら、その恵みに応えないということは、どういうことか。その恵みを真にはわかっていない証拠ではないか。あなたがたは恵みを深く知り、恵みに応える生き方をするのだとイエス様は語ったのです。

 私たちの思いの中には、このガラテヤ書の5章が教えるように、「肉の思い」があります。それは生まれながらの罪の性質で、私たちの心の中に自然とわき上がる思いです。最初のいつつかは欲と関係するものです。すべてを自分の思い通りにコントロールしたいのです。犯罪の動機は、色・欲・カネと三つとよく言われます。法には触れなくとも、人はこれらのものをして自分の思い通り、つまり自分の王国を築きたいのです。さらにそれは分裂・分派を生みます。人の思いに心を傾けることよりも、自らを主張したいのです。思い通りにことが運ばないときこそ、その試金石です。何かを言われたら、言い返したい。やりきれぬ思いはぶちまけたい。その思いを自制することは容易なことではありません。獣のように私たちの肉は、その心に挑みかかり、罪へと誘うのです。

 パウロはローマ書7章で「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。・・・私は、ほんとうにみじめな人間です。」とその葛藤を語っています。地上の生涯の間、私たちは逃れることができません。年をとれば、経験を重ねれば、いつか少しはましな人間になれるかもしれない。そんな思いを持ちますが、それは幻想です。年をとったらとったで、むしろいままで自分でつけていた鎧を剥がされて、戦いは増えるのです。罪との戦いはそこから解き放たれる天に迎えられるその日まで続くのです。

 一方で、主イエス様は私たちに御霊を与えてくださいました。その御霊は「あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(ヨハネ14:26)」と言われるように、私たちに罪を教え、悔い改めさせ、新しい思いを導いてくださる助け主です。だからこそパウロは、「御霊に導かれて歩もうではありませんか」と私たちに呼びかけているのです。

 御霊に導かれて歩むとき、私たちの内に働いて結ばせて下さる実は、冒頭のみことばにある実です。「愛、喜び、平安」は、主に神から与えられる賜物です。「寛容、親切、善意」は、私たちが隣人に対してなすわざです。「誠実、柔和、自制」は自らを律し、従わせる新しい生き方です。

 どれも生まれながらの肉の思いとは逆らいますが、キリスト者であるならば、誰でもその実を結ぶようにと導かれているのです。

 私たちの内に御霊が住まれるとき、私たちは同時に二つの声を聞きます。生まれながらの肉の声と御霊が選ぶように導く声です。御霊の声はか細い小さな声かもしれません。しかしそのとき、主イエス様のみわざと教えを思い起こし、恵みに応え、その足跡に従うことを選び取るのです。それが御霊に導かれて歩むということです。そこには従う意志、あなたのみこころの通りをなさってくださいとの祈りから始まるのです。