「仕事をする場所と食事をする場所は分けた方がいい」という話を聞きました。この場所は仕事の場所、この場所は休む場所と物理的に場所を分けることで、心の切り替えをすることができるからという理由です。一人でお昼を食べる私は、毎日、牧師室の机の上で弁当を食べたりします。「なるほどなぁ」と思ったのは、それで区切りがダラダラとしやすくなることがあるからです。
旧約の民にとって、礼拝するべき場所は幕屋でした。あるいはそれは神殿にとって変わりました。神の臨在は神殿の幕の向こう側、神の箱にありました。祭司がいけにえの血を携えてでなければ入れないところでした。ダビデが神の箱を神殿に運び入れるとき、途上でよろめいた箱に手を伸ばしたウザはその場で打たれました。それほどに神の臨在は聖なるものであったのです。
イエス様が十字架に死んだとき、神殿の幕は裂けました。礼拝する場所は「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(マタイ18:20)とイエス様が言われたように、場所に縛られることはなく、初代教会は「家の教会」と呼ばれるように、家々で礼拝するようになりました。
私たちの今、オンラインで礼拝するようになって、自宅で、食卓で礼拝をささげておられる兄姉も多くおられます。どのようにして礼拝をおささげするのか、その姿勢を一年過ぎてもう一度点検したいと思います。私たちはいつの間にかいい加減になりやすい者たちだからです。場を切り替えることはできないかも知れない。けれど、もし、ここにイエス様をお迎えするとしたらと考えて、場を整え、時間を聖別して、まして「ながら」などとならないようにしましょう。いままで教会に行くことで聖別しておささげしていたものが、区切りしにくくなっています。だからこそ、今一度新たな思いで聖別しましょう。