祈りと配慮、安心と慰め

 私たちキリスト教会の中で、ともに心を合わせて祈るということほど尊いことはありません。互いに言葉に出さずとも思いを察し、心遣いをし、配慮をもって寄り添ってくれたなら、痛みや悩みをもっている兄姉はどんなにか慰められることかと思います。5月の週報にも書きましたが、私たちが口を開ける場所というのは「安心」のある場です。それは、べらべらと言い広められたり、陰口やうわさ話はないと思える場です。ともに祈ることと配慮することとの間に、教会内では次のようなことを原則としています。心に留めてくださればと思います。
 週報などの印刷物にお知らせや祈祷課題として掲載するものには原則として個人消息等は入れません。掲載された・されない、伝えて欲しかった・欲しくなかったなどの誤解や行き違いを避けるためです。それで傷つけたりすることがあったら、それこそ本末転倒です。個人消息等は牧師が聞き、把握して祈っていることが多くあります。それらは本人または家族などにどの範囲まで、あるいはどの程度まで知らせるかをお伺いしたり、判断をお委ねいただいています。
 教会内ではこのように取り扱っていますが外から伝え聞く場合もありましょう。教会内では了解事項であったとしても、外では同じにいきません。そのようなことがあったら、そっと胸にしまって祈っていただきたいと思います。
 「私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。」(ヤコブ3:2)にあるように、私たちは黙して失敗し、口を開いて失敗します。ですから、交わりの中ではもう一つの配慮を加えたいのです。それは欠けだらけの者たちが赦し合って、補い合ってともにキリストのからだだということです。だからこそ、共に慰めのある交わりを築きましょう。