毎年クリスマスには、イエス様の降誕のストーリーを繰り返し繰り返し読み返します。そして、それはページェントとして演じられたり、子どもに絵本で読み聞かせたり。若いマリヤとヨセフとそれをとりまくザカリヤやエリサベツ、羊飼いや博士たちと美しいお話として記憶に留まります。
一方、当の本人たちにとっては大変なことでした。描いていた未来があったことでしょう。若い許嫁の二人がナザレという小さな村でささやかな家庭を始めるこれからに期待を膨らませていたことでしょう。そこに彼らは突如として選ばれ、おおよそ考えもつかないようなことを預けられるのです。どうして私がと考える間もなく、私ではなく他の人にと言う間もなく、いやそもそも人の歴史に後にも先にもない一回限りの神のご計画のために用いられます。それは、彼らがそれを受けとめる信仰の人として選ばれたからでしょう。
ヨセフの葛藤、ベツレヘムへの旅、エジプトへの逃避行。ナザレに戻っての再出発。どれをとっても難しいことばかりです。さらにマリヤにとってはその子が十字架に架けられるところまでを見届けます。どんな思いでそれを受けとめたのかを聖書は多く語っていません。それは、もっと大切なのは、神であられるお方が、人となってこの世を歩まれたという一点にあるからです。そして、その器としてそれを受けとめる若い夫婦を用いてくださったのです。
人としてこの世に来られたイエス様は、人のすべての悩みを知り、病者、罪人の友となり、人のすべての罪をその身に負って十字架の死をもって私たちを贖ってくださいました。そして、罪と死に打ち勝ってよみがえられました。それが私たちの救いなのです。そして、御子を賜るほどに神は私たちを愛してくださった。それがクリスマスなのです。その神への感謝に溢れて、主の恵みを心から讃えましょう。