神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
創世記1章26節
神は人をご自身のかたちに造られた。それはどのような意味を持つことでしょうか。
少々難しい話しになりますが、私たちのいのちの基、聖書の神は三位一体の神です。三位とは英語で言うとthree persons、3つの格。神は人ではないので人格ではなく位格と言い表します。一体とは、unityです。three persons in one unity、これを略してtri-nity(トリニティー)と言います。
それでは人格とは何でしょうか。それは、自ら考え、自ら決定し、自ら行動する主体です。
もう少し、わかりやすく話しましょう。息子がまだ幼稚園のころだったでしょうか。父親である私にしばしば時に涙目になりながら猛烈に食ってかかることがありました。彼はこう言うのです。
「お父さんはねっ、そうやって、いつも僕の一生懸命考えことを無視して、お父さんの考えを押しつけるんだねっ。それがいやなんだよっ。」
あまりに当を得た彼の訴えにこちらがむしろ反省させられました。
パスカルは「人間は考える葦である」と言いました。「我思う、ゆえに我あり」と言ったのは哲学者のデカルトです。その意味は自ら考える主体であるという意味ではないでしょうか。人生の意味を探求した者たちが言い残したことばはそれを表しています。
また、幼児はある時期、「自分で」という時期を必ず通ります。
「これ着なさい。」
「いやっ。」
「これにしなさい。」
「いやっ。」
「どうしてもいやなら勝手にしなさい」
こんなやりとりはどこの家庭でもあることでしょう。
受け身の人生を生きるのか、主体的、自発的な人生を生きるのかの分かれ目は、幼児期の経験が大きく影響することでしょう。喜びもって生きることができる秘訣は、自分で選び決めることにあるのではないでしょうか。
さて、病院に入院したことのある方ならば、おそらく経験があることだと思いますが、ナースコールを押すことにはためらいを感じます。
あのためらいは何かと考えてみました。それは自分でできるはずのことを人にやってもらうことへの遠慮です。もちろん看護師は仕事ですから、遠慮する必要などないのです。でも、遠慮する気持ちが働くのはなぜでしょう。本当はこのくらいのこと、自分でしたいのです。自分の思うように自分のことは自分でしたいのです。
年をとると自分の身の周りのことが自分でできなくなってきます。幼児は自分でできなくても未来があります。しかし、年寄りはますます自分でできることが少なくなっていきます。そして、やってもらわなければならないことが増えてくる、漠然とした心苦しさを感じるのです。
私たちは、そのように自らの考えをもち、自分で決めて、したいのです。
それが尊重されないと心が卑屈になります。どうせ一生懸命考えたって、やろうとしたって、認められない。つぶされる。すると次第に生きていてもしょうがないと思ったり、心に深い傷や闇を負ったりするのです。
幼児虐待、DV、セクハラ、パワハラ、いじめや暴力というような私たちが社会の中で抱えている問題も、この人格の問題に関わることです。無理矢理強いられて人格が傷つけられる。無視されるということがもたらす闇は本当に深いのです。
でも、それは氷山の一角であって、実は誰の心の中にも少なからずあることです。
聖書に戻ると、この箇所には「神のかたち」、「われわれのかたち」ということばが使われています。それは父なる神、子なる神、聖霊なる神の三位、三位格、三人格を指すことばです。神は永遠から永遠にこの世界の始まる前から存在するお方です。モーセは神さま、あなたをどのように皆に説明したらよいでしょうと問いかけると「わたしは、『わたしはある』という者である。」(出エジプト3:14)とお答えになりました。永遠から永遠に生きておられる神ご自身が自ら考え、自ら決め、自ら行動なさる人格をお持ちであって、そのかたちに私たちをお造りくださったのです。
あなたのいのちは、そのように神に造られているのです。どこかに傷がないでしょうか。どこかに闇がないでしょうか。神はあなたを自ら考え、決め、行動する人格を尊重し、それを喜び生きるものとしてこの世に生まれさせてくださったのです。世界に他に代わりはいない、あなただけのいのちを生きるために。