神のかたちと人権、人格

 人にとって最も大切なのことの一つは、「何ものにも妨げられることなく自由!」です。それが尊重される権利が人権であり、その基にあるのは人格理解です。ところが実際の世はそうではありません。人種や国籍、地域や風土、男女や年齢、能力や学歴、立場や環境。パーソナルな毎日の領域から世界大に至るまで、不自由を強いられるとこと、強いることが少なくないどころか、まかり通るような世のあり方です。
 神が人をお造りになったとき、それは「神のかたち」に創造されました(創1:26)。「神のかたち」とは三位一体の神です。3つにして一つ。父、子、聖霊なる神がそれぞれに「自ずから考え、自ずから決断し、自ずから行動する何ものにも妨げられることなく自由」という位格を持ちながらも、愛に結ばれて一つ。この理解なしに人権・人格を真に理解することはできません。「ひとりの命は地球より重い」と命の大切さを訴えることばを聞きます。しかし、その土台がどこにあるのか。どこかセンチメンタルな言葉です。
 人権・人格は罪によって踏みにじられています。神から離れ、思い通りにしようとすることが罪の本質です。それが隣人、他者を支配するのです。支配・被支配(従属)関係に罪が入り込んでくると、支配者の思うがままに自由が奪われます。考えること=思想の自由から、決断すること=決定の自由、行動すること=行動の自由を奪うのです。
 それがゆえに「抵抗権」という思想があります。それは「人民により信託された政府による権力の不当な行使に対して人民が抵抗する権利」ですが、それは民主国家の中でしか主張できません。人は罪ゆえに奪い、罪ゆえに支配し、罪ゆえに差別し、罪ゆえに虐げるのです。しかし、主イエス様の十字架のゆえに赦され、神の子とされた私たちは愛によって、喜んで自ら進んで捨て、互いを尊重する交わりを築くのです!