私の3.11、あなたは?

 2011年の東日本大震災、その前の年のこと、阪神淡路大震災で被災したS聖書教会のH牧師に「松村君、キミいくつ?」と聞かれ、「43です」と答えると、「ボクね、震災の時44やったから、今度はキミの番ね」と言われた。奇しくも震災が起こり、私は揺さぶられた。自分の立っているところを振るわれて、大事なものとそうでないものをふるい分けられる経験をした。

 東奔西走する私に妻は「あなたおかしい」と言った。あれもこれも、これもあれも、できることならどんなことでもする思いで動き始めた私に、彼女は選ぶことを教えてくれた。からだは一つ。心も一つ。委ねられた務めには限りがある。「ここ」が私の使命だと確信を与えられた。

 5年という時の流れは短くない。春は夏に変わり秋になる。寒い冬が終わりを告げると桜が咲く。その間にいのちの日は一日、また一日と過ぎていく。大切な日が流れる間、私たちは年を重ねる。小学生は中学生、高校生になり、大学生は社会にでる。生まれたばかりの赤ちゃんは走り回る子どもになった。とりわけ、老いの5年は大きい。いのちの時間の限りが迫ることを肌で感じるからだ。

 「ここ」が深められれば、周りに拡がる。そんな思いで5年が過ぎた。それがどれだけ深められただろうか。どこかに成果を測りたい、右手のしていることを左手に知らせたい思いが隠れていることに気がつかされる。ただ、恵みによって立たされているに過ぎないことを忘れないでいたいと思う。

 思いを新たに、あの日、迫られた大事なことにいのちの時をささげて生きたいと祈る。最も身近な人を愛すること、自分を捨てて生きること、限りある時間をいのちを与え、いのちを救ってくださった神を愛し、隣人を愛するために。あなたはどうでしょうか?