罪とその結果(2)~罪の原理とその表れ~信仰入門VI

あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。
創世記4:7, 8

罪の本質は、神から離れ、「あなたより私」という原理で自分中心、自己中心に生きることだということ、その罪は連鎖し、その罪の縄目の中に私たちは生きているということをお話ししました。それでは私たちの中に働く罪はどのように私たちの心に住み着いているのでしょう。カインが弟アベルを殺した出来事から考えてみましょう。


ことの次第は簡単です。主へのささげものをささげたとき、主が目を留められたのはアベルのささげ物で、カインのささげ物には目を留められませんでした。それでカインはひどく怒ったのです。ささげ物がどうであったのかは、アベルのささげ物が「羊の初子の中から、それも最上のもの」であること、カインのささげ物が「地の作物から」と書かれているだけですが、アベルのものについて丁寧に書かれていることがそれを物語っていると思われます。
なぜでしょうか。そこに働く原理は「思い通りにしたい、思い通りにならない、面白くない」という心です。さらに、「あいつさえいなければ」という思いに囚われ、殺人までを犯すのです。私たちの心に起こる不平不満や怒り憤りの多くはこれで説明がつくのではないでしょうか。私たち人間の罪深い心は、いつも自分が自分の世界の王様でなければ、一番でなければ気が済まない思いを持っているのです。
もちろん、自分がいつも一番でいるなどできません。そんなことは誰でも知っています。でも、私たちは自分の心を満足させるために見えないかたちでそれをするのです。殺人まではしないにしても、心の中で人を殺すようなことをしているのが私たちの姿です。しかし残念なことに、しばしば自分でも気づいていないことが少なくないのです。

ハラスメントということばがしばしば使われるようになりました。わかりやすく言うと「嫌がらせ、いじめ」です。アベルのような殺しというような暴力と違って目に見えるものではありませんが、原理は一緒で、どちらもキーワードは支配です。自分の世界では王でいたいがために、他者を支配するのです。それは私たちの最も身近なところからはじまります。夫婦関係、親子関係という家庭の関係、学校のクラスの中、職場における上司と部下の関係など。支配・被支配という歪んだ関係が表れるのです。エペソ人への手紙5,6章では考えるべき糸口となるべきこの関係についてこれらの関係を示唆しています。聖書は私たち人間の中で表れる問題について教えているのです。
どのようにそれは表れるでしょうか。家庭の中であれば、多くはその権威を振りかざす夫あるいは父親がする場合が多いのですが、妻や子どもが話しかけたり、質問したりしても無視する。あるいは「くだらない」とか「さっぱりわからない」のひと言でかたづけ、相手にしない。お金の使い道、勉強について、あるいは行動の一つ一つにまで干渉する。自分がしたことについて認められないと不機嫌になり、一方で家族が楽しそうにしていると不愉快な顔をする。周りの人の前でけなす。家庭内で立てた予定を忘れたり、無視したり、勝手に変更する。一方で体面を気にして、他の人たちからは「いい人」という評価を得ている。夫婦だけでなく、親子も同じです。
学校や職場という場所ではどうでしょうか。その人があたかもそこにいないかのように無視、シカトする。必要なことを知らせず、あるいは仕事を回さない。みんなの前で言って欲しくないことなどを言い、笑いものにする。自分のしたことを恩に着せる。
他にあげれば切りないことでしょうが、このように人格を無視し、支配するのです。そして、それがことばによるもの、あるいは態度でするもの、それでも支配できないと暴力を使う。それが罪の原理と関係です。
さらに、私たちは赦せない思いを内にためます。赦せたなら、それから解放されてもっと自由になれるはずなのにそれに縛られてしまうのです。

それはそもそも、私たちが神に造られた者として、神に従いいのちを喜ぶべき存在であるのに、神との縦の関係が切れたため、人間同士の横の関係のなかだけに生きようとするから起こるものなのです。人間同士がそのような罪をもっているから、お互い気持ちよく過ごすために守りましょう、これはしないと約束しましょうと言って解決できるものではありません。それどころか、どうにも逃れるすべがないのがこの罪です。カインに「あなたは、それを治めるべきである」と言われたように、こらえよう、ガマンしようとしてきたことでしょう。でもできないのです。そのときに使う常套句は「しょうがない」であり「あきらめよう」です。
しかし、本当の解決は、神から離れているという罪のゆえ、自分の居るべき場所を失っている。それを悔い改めるところに与えられるものです。悔い改めるところには、必ず神が解決へと導いて下さるのです。いや、罪を認め、悔い改めることこそ、神が導く解決への第一歩なのです。