罪とその結果(3)~神のさばきと思い~信仰入門VII

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」
創世記6:5-7

これは良く知られたノアの大洪水の物語です。物語というとなにやら架空の神話のように思えるかもしれません。愚かなもので、人間は歴史が語る大事な教訓をただのおとぎ話にすり替えてしまうのです。私たちは神がなさった出来事を真摯に受けとり、学ばなければなりません。聖書の出来事はみなそうです。歴史の中に働かれた神のストーリー、「history=his story」なのです。ただの歴史物語や神話ではありません。歴史の中に、そしてその中に生きる私たちひとりひとりにどのように関わっておられるのかを知ることは、世界を知る大切な手がかりなのです。
このノアの洪水は私たちの生きるこの世界の転換点について扱っています。神は世界を創造したら、造りっぱなし、後は勝手にやれと放っておかれるのではなく、神がこの世界の中に生き、この世界を保ち、この世界を治めておられるのです。そしてその神が、人の世界に介入なさったのです。どのような思いであったでしょうか。神は人の世界をご覧になって、「悔やみ、心を痛め、残念に思っておられる」のです。そして、神はこの世界をさばき、滅ぼされたのが大洪水です。
それに対して私たちの心はなぜか神につぶやきたくなるのです。神は人をお造りになったのに、どうしてそれを滅ぼしておしまいになるのだろうかと。預言者を通して主はそんな人のつぶやきに答えておられます。

ああ、あなたがたは、
物をさかさに考えている。
陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。
造られた者が、それを造った者に、
「彼は私を造らなかった」と言い、
陶器が陶器師に、
「彼はわからずやだ」と言えようか。
イザヤ29:16

そう、私たち人間には造られた者としての分があるのです。分をわきまえずに神から離れた結果、自分たちに招いたのは罪とその結果。互いに争い、弱肉強食の世、弱い者、貧しい者が虐げられ、搾取され、絶えず混乱の中にいるのです。それは自らが招いた結果。神のせいにするなどお門違い。自らの罪に目を向けるべきなのです。
神自らお造りになった世界を滅ぼさずにはおられないということは、どんなに残念なことだったでしょうか。正しい義なる神は罪の世を見過ごしにされることはありません。世の中に正義などあるのだろうか。誠実に歩みながらもいつもそれが報われない者には希望です。罪人が栄え、悪が覆っているように見える世の中、神が白黒ハッキリとしてくださる。それを神はこのときなさったのです。そして、それは神が必ずそれぞれのいのちを裁かれるという恐れを覚えるべきです。

「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル9:27) 」
とあるように、さばきはまた、一人一人必ず避けて通ることのできない神の前に立たされるときです。そして死は「罪から来る報酬は死です(ローマ6:23)」と語られるように、罪の結果の神のさばきなのです。堕落以前の人に死はありませんでした。
意識しようとしまいと人は死に対する恐れを持っています。それは誰もが例外なくたった一人で向き合わなければならない孤独なことであり、その先になにがあるのかがわからない不安であり、自分の存在というものの否定につながることだからでしょう。
消えてなくなってしまうにはあまりに悲しすぎる。だから輪廻転生の中にいると説いたのは仏教です。そして、そこから救われる道、悟りを開くよう、ひたすらに念仏を唱えよと教えるのです。人の恐れはなんとかその不安を解消しようとさまざま逃れの道を考えます。しかし、聖書はハッキリと死ぬこと、神の御前にさばかれることを教えているのです。

また、大洪水の出来事はただ神がさばかれたということを伝えるために記録されたのではありません。その中で神はノアを選び、彼と彼の家族を箱舟によって救い出してくださいました。彼らが努力したからでもなく、熱心に悔い改めをしたからでもなく、神が備えてくださった救いをただ信じることで救われたのです。そしてまた、それはイエス・キリストを通しての救いの型です。
本来、裁かれ、滅ぼされても同然の罪人である者を神は愛おしみ、あわれんで救おうと選んでくださっているのです。あなたがなすべきことは、聞いた神の招きに答えて救いを信じることです。すべてが滅ぼし尽くされるなかで救われたノアのように。